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L'amant / imuruta

​愛で苦しんだ人だけがこの物語を理解するだろう
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    洗練

夕刻 スコールとともに退屈な授業が終わるとみな一斉に寄宿舎に戻り
その日以外の少女たちは シャワールームへと急ぐ
ここには舎監もいないし その裸のせいか屈託がない
誰もがその育ちざかりの体にシャボンを塗ると おしゃべりに余念がない

ねえ今度の週末には中華街に行ってみない
いつも通りのどこかから阿片の匂いが漂ってくる街
ここの原住民とは違って 中華の小間物類はたいそう手が込んでいる
手首や足首につけるアンクレットはどれも極彩色で眩しい

ねえ男たちはみなどうしてわたしの足許ばかり見るのだろう
まるでそこには金の鈴がついていて シャンシャンと音を立てているみたいに
それは男たちがまるでニッキ飴のように 口に入るものが好きだからよ

ここは赤道に近い仏領インドシナ南部の とある白人駐留区
男たちはみな粒選りの真珠が五つづつ並んだ彼女らの足を好む
口に頬張るのに これほど洗練された果実はない

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    帰還

あたしは十五歳半 生まれてこの方希望を持ったことはない
バカロレアで良い成績を取ること それだけを言われ続けたこの十年
あたしはいつもひそかに越境することだけを考えている
それだけがエクリチュールとパロールの架橋であると知ってからだ

あたしの週末は苛酷だ 母に連れられて兄たちと
南部にある海沿いの耕作地へと行く そこで堤防について交渉する
いったん高潮が起こると この耕作地は水没するからだ
だがたかが十五の娘に そんなことが関係あるのだろうか

母は相変わらず 兄たちと話しているときはすこぶる陽気で
何故かあたしと向かい合うと神経質で不機嫌になる
それはまるで パロールとエクリチュールの違いであるかのように

その週末の帰り 帰りと言っても国営の寄宿舎への帰還であるが
かっきりとそこだけ切り取られた一枚の写真がある
十五歳半で 自分が女であることを知るきっかけとなる写真が

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    距離

あたしはとつぜんサデックからサイゴンへと戻る渡し船の上にいる
船もオンボロなら その船に乗った現地の連絡バスもオンボロだ
あたしは河風に吹かれるためにデッキへと出て 保護柵に足を掛けて
この河の逐一時間を流し続けるその水量に目を瞠る

あたしの目の奥にもうひとつの目があり さらにその後ろにも目がある
その目はバスの後ろに積まれた真黒なリムジンの中からのそれで
目は遠慮がちに しかし時間に抗えない距離の顔をしながら
ゆっくりと一歩一歩あたしの影へと近づいてくる

あたしはその日 バーゲンセールで買ってもらったハイヒールを履いていた
そしてその先には そこだけ輝く十個の肉の真珠が並んでいた
その目はあたしと並ぶと河面を見るふりをして じつは真珠に見蕩れている

男はあたしのひと回りも歳上の紳士で しかもフランス帰りの中国人だ
彼は煙草に火をつけるふりをして じつは言葉を捜している
それはまるでパロールがエクリチュールを捜しているかのように

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    窮屈

ここサイゴンでは十五歳半は もうとっくに大人だ
誰もこの歳になって堅苦しいだけの学校になどは通わない
むろんその学力もなければ それを支えるだけの経済もないのだが
ただ文明国を装った本国だけが それを旧態依然と強要してくる

たぶんここサイゴンは仏領でなければ とうの昔にお隣の
大国中華のものとなっていただろうが そちらにしても大差ない
男は財力にもの言わせてパリの大学で学んで来たのだろうが
それはごく稀なことで 男はこの街屈指の財閥の出だ

彼はその財力にも関わらず この白人の小娘に怖気づいている
彼がふるえる手で煙草を差し出すが 娘はそれを断わる
これほどあからさまな人種の違いがあろうか

彼は怖ず怖ずと しかし流暢なフランス語で話しかける
多国語で 異種間のその間隙を埋めようとするその並々ならぬ努力
ハイヒールの中では粒選りの言葉が窮屈そうに並んでいる

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    間隙

「男はこの渡し船でお目にかかれるなんて まったく不思議だという
じつに意外なんです 現地人用のバスに白人の娘さんが乗っているなんて」
遠い記憶の向こうから ひとつひとつ正確に発音されたフランス語が甦る
そしてそれは逐一パロールがエクリチュールに変化する一瞬だ

あたしはもう二度と現地人用のバスに乗ることはないだろう
何も足指が指順にハイヒールに収まっていることなどないのだ
男は初めて出会った娘の指と指との間隙に見惚れている
あたりさわりのない自己紹介の言葉にいちいちうなずきながらも

おそらく彼の相手をしたのはパリの商売女たちでしかなかっただろう
えっ パリに中国人? 語学と経済を学びに? そして作法を?
彼は一事が万事この小娘の一挙一頭足にその魅惑を感じ始める

一枚の写真がある いままで一度もエクリチュールに変えられなかったそれが
あたしは彼が送るという学校の門前まで黒いリムジンに揺られることになる
パロールのない空間 揺れるたびにシートで支える手 そしてその遠さ

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    儀式

その日の夕刻のシャワールームは あたしの噂で持ち切りだ
月曜の朝 黒いリムジンで送ってもらって来た小娘の話で
だが誰もあたしに直接話を聞きに来はしない ただひとりを除いては
それは仲の良い友人だっただろうか それともそれは年老いた著作家

彼はそれ以降一日も欠かさず寄宿舎と学校の間を送迎する
あたしは母のお下がりの洗い古した絹のワンピースを着て
彼はこのまま社交界に出てもおかしくないほどの正装で
よれよれで透けて見えるワンピースの下に まだ熟さないエクリチュールがある

それはこの日課が数週間過ぎようとした とある木曜の夕刻
運転手付きの黒塗りのリムジンがおもむろに寄宿舎に横付けされる
彼が意を決した面持ちで 中華街の別宅へとあたしを招いたのだ

彼の礼儀正しいフランス語が あたしの指の間を所望している
あたしはまるで王女が騎士の望みを聞き届けてやるかのように振る舞う
それは十五歳半の王女が騎士の終生の誓いを聞いてやる儀式

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    素裸

それはショロン地区にあった 大通り 路面電車 人力車の入り混じった街
その反対側にある憎悪と頽廃を鎧戸に閉じ込めた部屋は
彼は部屋に入り ベッドに腰掛けると言葉を慎重に選びつつ
まだ服を脱がせないまま 狂ったようにあたしを愛していると言う

あたしはその瞬間に知る 彼はあたしのことを知らないのだと
あたしとしたところで愛していると言っても そうでないと言っても嘘だ
そしてその嘘を逐一醒めた目で見張りつづけるのがエクリチュールだ
あたしは彼に言う まるで商売女のようにあたしを抱いてと

あたしはそれから戸惑う彼の服を脱がせ始める
それから彼の手で乱暴に素裸にされ 女である自分自身を知る
だがほんとうに知ったのは ふたりがどこまでも一人ぼっちだということだ

「そして泣きながら男はあれをする はじめに痛みがある
次いでそのあとで この痛みのほうが奪い取られる
変えられ ゆっくりと剥ぎ取られ 悦楽のほうへと運ばれる」

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    負荷

「出血するということを あたしは知らなかった
彼はあたしに痛かったかとたずねた あたしは いいえと言った」
それから彼はあたしの血を拭き 大きな金盥に水を張ると
そこにあたしを立たせて あたしの体を洗ってくれる

柄杓で肩に水を掛け 幾度も水瓶から汲んだ水を掛け
胸から腹 そしてさっき血潮の付いた股間を洗ってくれる
それから あたしのボディラインを滑り落ちて水の時間
それはまるで一生忘れ得ぬ二人きりの時間

「彼がそうするのをじっと見ている 少しづつ彼は戻ってくる」
それから二人の若い体を通して繰り返される 贖罪の時間
また繰り返される 単純にして比類ない時間

「彼はあたしの体を抱きしめる そして何故あたしがここに来たのかと尋ねる
あたしはただ そうすべき義務を負っていたのだと答える」
これは痛みをエクリチュールの快楽へと変える負荷だったのだ

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    可憐

とつぜん幾つも繕われたストッキングのイメージが目蓋を横切る
それはあたしの母の足であり 自分自身の足でもあり
この部屋に連れ込まれた幾人もの女のそれだっただろうか
彼はいままでもそうして来たであろう あたしの足指を舐めはじめる

貧困とは 可憐の同義語だっただろうか
盥の中でふやけたあたしの指を 彼はまだ舐めつづける
あたしはこのくすぐったさに我慢しつつも つい彼の顔を足蹴にする
舐めるがいいのだ それがエクリチュールの時間だ

富には選択肢があるが 貧困にはそれがない
あたしは明日もこの男に足指を舐めさせるだろう
すでに貧困に汚れ汚れた この十五歳半の足を

やがて彼は おもむろに服装を整えだすと
この街切っての中華レストランへとあたしを誘う
そしてたった一度の食事で支払われる途方もない札束

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    妙薬

ねえねえって その時って 思い切り声を挙げていいのよ
男の背中を思い切り爪で掻き毟ったっていいのよ
隣でシャワーを浴びる子たちがあたしを見るでもなく賑やかにしゃべっている
なんでも中国人の間じゃ それを飲む男もいるそうよ

この子らは まるであたしへの当てこすりで話をしている
中国の老人たちは処女を買って そのとき股間に溢れ出したものを
長寿の妙薬として 一滴余さず飲んじゃうそうよ
そう言えば痛みで朧気だったが そんな気配もした

彼はその後も執拗に 人種間の高低をわきまえたように低姿勢のままだ
だが彼はいつもイギリス煙草と高価な香水のいい匂いがする
そして蜜の匂い 絹の匂い 憔悴を焚き染めたパロールの匂い

「彼は言う あたしがきっとほかの男が出来て彼を捨てるだろう
そして一緒になる男を つぎつぎと全部裏切るだろう
ところが自分はこれまで幾ら女と寝ても 自分自身の不幸を演奏する楽器だったと」

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    絶望

「彼はあたしに跳びかかる 子供のような乳房を咬む 叫ぶ 罵る
とてもつよい快感の上であたしは目を閉じる あたしは思う
このひとは慣れている これだけなんだ 女と寝ること それだけなんだ」
女はいったいいつから快楽に溺れるのだろう この男の手ほどきで

「完璧だ あたしはついている 本当にこれが彼の身につけた職業のように
彼はこの売女 この助平女と叫びながら あたしを抱き
そして最後には好きなのはあなただけだとあたしに言う」
あたしは日に日に自暴自棄と絶望を快楽へと昇華させる

みそっかすで何が悪い この発達不良の貧困な胸で何が悪い
彼の口づけはいつも執拗で長く あたしの快楽を途切れさせない
この時間 このすべてのパロールを無効にする時間にあたしは酔っている

「いまや夜が訪れている あたしは生涯この午後を覚えているだろう
たとえ彼の顔まで 名前まで忘れてしまっても」
それからほどなくして彼は上着の内ポケットから札入れを出す

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    帳簿

「彼は言う あれのあとはいつもつらいんだ お互い愛し合っていても
愛し合っていなくても いつでもあれのあとはつらいんだ」
これはあれのあと体の中に沈殿する疲労や倦怠感のことを言っているのか
あたしだってこの男の暴力のせいで 同じくふかい疲労と絶望の中にいる

だがこの男が何を言っても あたしの絶望の比ではない
白い漆喰で塗られ 表面だけ清楚に表現された寄宿舎の壁
そして同じものを股間に隠しているくせに いつも偉そうな舎監たち
それでどれほど勉学に励んだところで あらかじめ失われた未来

幾人も下女がいて まるであたしほどの年端のものも雇い
毎日毎日 頭取が持って来る帳簿だけを見ているこの男
「母がもしこのことを知ったら きっとあたしを殺してしまうだろう」

それでもあたしをこの男に向かわせる力は むろん愛なんかじゃない
あたしは毎日支払われる札束を その確かな証拠として受け取る
ただ金のために体を売る はしたない女というエクリチュールのために

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    自恃

「これまでもいつもあたしは悲しかった とても小さな頃の
あたしの写真でも その悲しみがあたしには見てとれる」
情事が終わったあとはいつも物憂い そして二人の間のパロール
だがこの悲しみにもしエクリチュールが名を与えるとしたら それはあたしの名だ

「母の給料だけで暮らすのは 単純に言って
どんなに難しいことだったかを あたしは彼に語る」
あたしには母と二人の兄がいるが 父は病気で亡くなっている
そしてこのどこまでも続く貧困のために 家庭は崩壊してしまった

窓一枚で隔てられた通りでは こんなことは当たり前だと
富と貧困が この小さな自恃と蔑みが 何ごともなく行き交っている
はたしてひととひととを結ぶものは この盲目の性器だけなのか

「それでもまた体のあちこちと接吻されると 泣けてくる
まるで接吻で 心が休まるかのようだ」
そしてあたしはまた勃起してくるエクリチュールを迎え入れる

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    露見

「あたしたちは外に出た あたしはまた黒いリボンのついた男物の帽子を被り
金ラメの靴を履き 唇に暗赤色のルージュを引き 絹の服を着ている
あたしは年老いた 突然それを知る」 だが街を行く姦しいパロールとは裏腹に
あたしはこの老いを腹に宿し それをエクリチュールへと育てねばならない

「あたしたちはこの地区にある数階建ての中華レストランのひとつに行く
そして一番静かな ヨーロッパ人用の階へ行く」
この街ではきっとフランス人が中国人を蔑み 中国人が現地人を蔑み
それから廻り回って 現地人が複雑な感情とともにフランス人を蔑んでいる

そしてそれはまた パロールとエクリチュールの間にある隙間を際立たせる
それは足の指と指の間にあるもの この足の付け根にあるもの
悲しみと慈しみの間にあるものを 刻々と露見させる

見縊ってはならない あたしは日々彼に組み伏せられながら
この間にあるものの正体を 刻々と体に刻んでいる
そしてあたしは言葉を選ぶだろう この悲しみが粉々に砕け散るまで

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    悲劇

「痛い ちくっとごくわずかに 心臓の鼓動があそこに移ったのだ
あそこ 彼があたしに与えたまだふさがらぬなまなましい傷口に」
それは彼が父親の途方もない財産について話しているときだった
財産の話は気持ちがいい 少なくとも貧困について話しているよりも

「あたしは彼にもっと話してと言う 彼はパリのことを考えてしようがないと言う
だがあたしのことをパリの女とはとても違う ずっと優しくないと思っているのだ」
あたしは彼に金輪際媚びない あたしたちに共通の未来などはない
あたしはあたしの体のままにこの疼きを開くが それは愛とは別物だ

「彼はパロディのかたちでしか自分の感情を表現できない
父親に反抗して あたしを連れ出すだけの力はこのひとにはない」
だがあたしもまたパロディの中にいる 相反する体とエクリチュールの間に

彼はまたどれほどあたしのワンピースが洗いしょたれて
まるで透けていようと 新しい服を買おうとは言い出さない
それもまたパロディで 彼は貧民をペットのように扱うことでこの悲劇に耐えている

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    惨状

ひとはときに自分を試すために 一見無謀とも思えることをする
彼は中国人なんだから 白人じゃないんだから あたしの言うことは何でも聞く
ある夜あたしは田舎からサイゴンへと家族を呼び寄せ 食事に招待する
しぶしぶだが疚しい心の彼は おどおどしながらもこの食事会に出る

だがこの奇妙な食事会の間 話をするのはあたしの母だけだ
阿片のせいでいつも狂ってる上の兄と もともと自閉症ぎみの次兄は
この中華のフルコースというメニューを ただただがつがつと食べている
そして彼はこの食事会の間中 まるで不在を宣告されている

あたしもむろんこの豪華な食事を口に入れるとき以外は口を開かないが
あたしはこの惨状をただありのまま見せたかっただけだ
あたしはただ金のために そのためにだけ彼にこの体を提供していると

寄せては返す波が ただただ砂浜の砂を攫ってゆくだけの日常
たとえ自分を取り戻すのが この男との行為の間だけだったとしても
あたしはそれを断固として否定する あのエクリチュールがやって来るまで

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    復讐

おそらくあの長兄の侮辱的な荒々しさは あたしの中にもある
そしてきっとまた次兄の人生を狂わせた羞恥と自負のアンバランスさも
なおさら貧困と不遇と支離滅裂に苛まれつづける母の人生でさえも
だがあたしはただ生まれてこの方 これらの狂気に復讐できないでいる

もしかしてあたしの復讐心が この男を人生に呼び寄せたのかとも思う
この男の体の下で じつは底知れぬ快楽にのたうち回りながら
ただこの略奪と布施の行為を そこから遠く離れて見つめ続ける目
あたしは日々この男を愛に入れないことで それを果たしている

あたしたちは明日もあの部屋で あの連れ込み部屋で
会えば裸になり 抱き合って愛し合うのをやめることなどできないだろう
だがそれは二人の間の未来の不在を決して埋め合わせたりはしない

女であるとは その人生において被虐を演じることなのか
男であるとは だが彼の人生はその愛ゆえにすべてが逆転してしまっている
あたしは明日も明後日も 決して愛さないことで人生に復讐している

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    無為

「あたしたちは連れ込み部屋にまた行く あたしたちは愛人同士である
そして抱き合って 愛するのをやめることができない」
だがまた彼はあたしがとても若いせいで つねに怯えている
もし誰かに見つかれば 彼は未成年を相手にしたことで監獄に繋がれることだろう

のちに分かったことだが パリで彼はほとんど学校に通っていない
それに見切りをつけた彼の父が送金を停止し
帰りの汽船のチケットを送ってきたことで 彼のいまはある
彼は通信教育を受けると言うが そんなものも羽の生えた札束のようなものだ

こうしてあたしの人生には何の保証もない
あるのは借財と 無為の時間と まるで阿片に浸るような毎日だけだ
そしてじっさい彼の父は 典型的な阿片中毒者だ

そんななか ただエクリチュールだけが先へ先へと歩を進める
彼は大きな金盥の中で 今日もあたしの体を洗ってくれる
そして石鹸の泡が洗い落されると そこには裸のエクリチュールだけが立っている

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    昇華

「彼は黒塗りのリムジンで彼女を寄宿舎まで送る 見られないように
入口の少し手前で車を停める 夜中だ 彼は夜のほうを振り向かない」
学校が引けてからの時間 あたしはもう寄宿舎には戻らない
戻ってもたいてい夜中だ そしてとある朝 舎監に呼び出される

舎監はあなたの母と話さなければと 強張った顔で言うが
田舎からはるばるやって来た彼女は 舎監の目をじっと見て
それから同じ教育者として どうかあの娘を自由にさせて欲しいと言う
若い頃に自由はとても重要であり とりわけ夜はそれを知っていると

あたしはこの細くて白い体を差し出して 夜を迎えるだろう
夜はその営みの中で 迎えられた歓びにうち震えるだろう
それはまだ遠いかも知れないが その歓びはやがてエクリチュールへと昇華する

とある夜 夜中遅くに寄宿舎に戻ると 運動場に煌々とライトが点いている
寄宿生が皆して この不在の少女を捜しているのだろうが
そんなところにあたしはいない あたしの夜はリムジンの中に置いてきたから

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    純血

あたしの唯一の友だちは同じ寄宿舎にいるエレーヌだ
彼女はもう十七歳で ほぼ女として完璧な体をしている
同じ寄宿舎にいる娘たちのほとんどは白人との混血児だが
いわばあたしたち二人だけが純血種だ だが純血とは

彼女は寄宿舎の中を 平気で素っ裸で歩きまわる
そしてあたしのベッドを囲む蚊帳のなかに入ってくると
いつもあたしにパロールをせがむ 何故なら彼女はまだ処女だからだが
その期待に膨らんだ胸の中で あたしのパロールは慈しみ雨のようだ

ねえ初めての時はどんな痛みだったの まどろっこしいほど痒いの?
ねえ彼のあれはどれほどの大きさなの 引き抜いた時は光ってるの?
ねえマルグリット その間じゅうあなたはどんな声を挙げているの?

あたしは彼女がどの同性よりも秀でていることを知っている
だけどあたしはこの貧弱な体を省みても 少しも怯まない
あたしは彼女よりもより多くを知り エクリチュールの何たるかを知り始めている

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    進行

耳元で 同じベッドの中で エレーヌはまだ昂奮覚めやらぬようだ
あたしはふとエレーヌをあの男に紹介したいと思う
あたしが毎晩感じているこの底知れぬ悦楽を 彼女にも味あわせたいと思う
あたしはあの男がエレーヌの上で 同じことをするのを見てみたい

「あたしのいるところでそうさせる 彼女があたしの欲するままにあれをやるんだ
そうすればきっとエレーヌの体を通して 悦楽が男からあたしへとやってくる」
あたしはあたしのエクリチュールで エレーヌのあそこを犯し続ける
そうすることでもう死んでしまいたいほどの悦楽をあたしは得るだろう

それは経験というファクターを同じ体で共有する試みだろうか
この体で この女という溝で その深奥に巣喰う悦楽で
エレーヌもまた あの男が奏でるパロールという舌でそれを知るに違いない

そしてあたしはそこで繰り返される日々の営みを言語化する
そしてそれは この悦楽を再構築するものでは断じてない
それは進行する悦楽そのものの未だかつてない進行そのものとなる

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    貞節

「あたしはエレーヌがあの男と同じ肉体を持っているようだと見てとる
しかも彼女のほうは照明を発する 太陽のような無垢な現在時を生きている」
あのいつも香水の漂っているなめらかな肌の男となら
エレーヌの完璧な現在時と それは歯車が合うような釣り合いを取るだろう

「ひとつひとつの仕種で 一粒一粒の涙で その欠陥のひとつひとつで
その無知のひとつひとつで 繰り返し彼女自身の開花を生きている」
あたしは彼らのベッドの傍の椅子に座ると その一挙一頭足に目を瞠る
あのことの間中 あたしは瞬きもせずにふたりのやることを見つづけるだろう

あの男はあたしにやるように足指から舐め始めると やがて向う脛を登り
それから足の付け根まで そのよく動く舌で官能の時を与えつづける
そして彼女は あれほど知りたがっていた疼きの声を挙げ始める

「あたしはこの二年の間 他のどんな男にも近づかずに過ごした
だがこのふしぎな貞節は きっとあたし自身に対する貞節だったに違いない」
そして貞節は夢想の中だけで あたしはエレーヌを紹介したりはしない

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    自棄

「あたしはまだこの家族の中にいる あたしが住んでいるのはそこだ
この家族の乾ききった姿 ひどい頑なさ 悪しき力の中に」
だがあたしにはあたし自身の本質をなす ひとつの確信がある
それはやがて自分はもの書きになるという確信で それはのちに反狂気となる

ショロン それは死と隣り合った暴力と絶望と汚辱の場所だ
それは新鮮で新しい光に浮かびあがる呼吸不全の場所
あそこに男のものを咥えると どうしてあたしは呼吸不全に陥るのか
それは女なら誰しも耐えられぬ不毛の刑台 そしてそこでのあからさまな自棄

あたしはそこで無名の悦楽にのたうちまわっている間中
供犠に臥された処女であり 屠られる肉そのものとなっている
しかしまたこの絶望と汚辱の中でしか育まれぬエクリチュールがある

乾ききっていて悪しきものらに見透かされているからこそ見える悦楽
そして幾度もいくども体に訪れてくる絶望的な絶頂
もしそこで噛んだ唇が 底知れぬ不毛に抗う反狂気であるのでなければ

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    黄昏

「黄昏は一年中同じ時刻に落ちて来た それはとても短くほとんど荒々しかった
雨季には何週間も空が見えず 黄昏は月の光さえ通らぬ一様な靄に包み込まれていた」
あたしは田舎に帰るたびに その期間に稼いだ札束を母に渡す
それは今や母が公立の小学校教師として得る給与よりも多いのだ

「毎日の昼間のことはよく覚えていない 陽光の激しさがものの色を失わせ
すべてを圧し潰していた だが夜のことはよく覚えている 青い色が
空よりももっと遠くにあり あらゆる厚みの彼方にあって世界を覆い尽くしていた」
熱帯のジャングルからほど遠からぬ 原始の光がまだ醒めやらぬこの一帯

彼はあるとき意を決して病気の父を見舞いに行く
彼には幼い頃から両家で取り交わされた縁組があり
その避けられない日付が彼に迫ってきていたからだ

ところが彼には家業を発展させた何の実績もない パリの学校での卒業証書すら
父は咥えていた煙管を少し離すと冷たく言う もしこの縁談に不服なのなら
お前を勘当し 今後いっさいの経済的援助も断つと

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    情熱

「父だって長い生涯の間に 少なくとも一度は恋の情熱を経験したはずじゃないか
だからこの狂おしい気持ちを 白人の娘に対するこの狂気の愛を父に頼んだのだ」
恋はいずれ逆境にあればあるほどに 得てして狂おしい愛へと変化する
だがあと一年してあたしがバカロレアに合格すれば やがて本国の大学へと進むだろう

「あの娘の体から離れるなんて 怖くって怖くって 父さんだって分かるじゃないか
決して二度とありえぬ恋なんだから」 だが父はそんな息子など死んだ方がいいと言う
そしてその巨額な財産のゆえに あらかじめ失われていた彼の経済的自立性は
もしかして彼とは ただこの恋のためにだけ生まれてきた存在なのだろうか

「あたしたちは水甕の冷たい水を使って いっしょに体を洗った
あたしたちは抱き合った あたしたちは泣いた そしてあれはまた死ぬほどだった」
ひとはきっと悲劇を生き始めるとき その一瞬一瞬を慈しみ始める

「あれが終わってからあたしは彼に言った 何も後悔しないでと」
そしてあたしはいつも自分に言い聞かせていた言葉を彼に言うだろう
あたしはどんな男が相手でもよかったし いつあなたを棄ててもかまわないのだと

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    欺瞞

「それはヴィンロンの長い並木道のひとつで メコン河のところで終わりになる
それは夜になるといつもがらんとした人気のない並木道で たいていいつもそうだ」
あたしはいつもこの並木道で誰か背の高い女に追いかけられる
そしてこの停電した街での この恐怖はあたしの力をはるかに越えている

この女を昼間見掛けても ただベンチで寝転がっているだけだから恐怖はない
だが漆黒の闇の中で追いすがられると あたしは死の恐怖すら感じる
あたしは駆けて駆けて 自分のハイヒールさえ脱ぎ捨てて家に辿りつく
「それから何日間か 自分の身に何が起こったのか あたしはまるで話せない」

それは精神の自己欺瞞を暴く 肉体の方からの異議申し立てだったのだろうか
あまりの恐ろしさに あたしは誰かひとを呼ぶことすら出来ない
そしてひとは肉体とともに生まれ 肉体とともに死ぬことを歴然と知る

彼の喪失 彼の不在 彼はその後 あたしを抱こうにも抱けなくなる
おそらく後回しにしていた決定的な事象が芽吹いたのだ
ある日あたしはもう勃たなくなった彼の男根を目撃することとなる

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    無言

「十五歳半 サデックの白人駐留区では ものごとはたちまち知れ渡る
あの服装だけで不名誉なことが囁かれる あの娘ったら可哀そうに
あれですよね あの男ものの黒いリボンのついた帽子はただごとじゃありませんね
あの口紅の引き方だって相当なものですよ あれはただごとじゃありません」

「つまりはね 男の眼を惹くためなんですよ お金が目当てね
しかも相手は中国人なんです 大金持ちの息子 青いタイルを貼ったメコン河沿いの家」
この街の広い通りで あるいは狭い通りで 黒塗りのリムジンとリムジンが擦れ違う
そして向こうの車窓に見えるのは州知事のマダム こちらはまたしても年端も行かない娘

「休み時間に 娘はたった一人で雨天体操場の柱にもたれて通りを見つめている
このことは母にも言っていない 娘は相変わらず黒塗りのリムジンで登校して来る
女生徒たちは娘が出て行くのをじっと見守る 例外はただの一回もない」

いまやだんだんに口数が少なくなる 男の口からも娘の口からも
もはや希望や 愛の言葉や ちょっと気の利いたジョークは出て来ない
あの連れ込み部屋にも灯りはともされず ただ無言の二人が向かい合う

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    水甕

「夕方 学校の出口には同じ黒塗りのリムジン そして傲慢さと子供っぽさを示す帽子
そして彼女は行く 彼女は中国人の億万長者に体を裸にしてもらいに行く」
そしてこの体は愛人の接吻を受けながら いまにも死んでしまいそうに感じる
それは悦楽という底知れぬ汚辱に委ねられた十五歳半のままの体を

「男が彼女のために特別に取ってある水甕の冷たい水を使ってあたしを洗う
それから男は濡れたままの彼女をベッドの上まで抱きかかえてゆくだろう」
そして長い時間をかけてあのことが終わると 彼女は寄宿舎に戻ってゆくだろう
だが彼女を罰する者は 顔が歪むくらい殴る者は 罵る者は 誰もいない


「ごらんなさい まだほんの子供ですよ それが夜毎 夜 売春をする
誰も彼もあのちびがお目当てなんです 疵ものですって 誰のための言葉でしょう」
誰の 誰のものでもない体を盗むのはいけないことなんでしょうか

少なくとも十五歳半のあたしは もう誰のものでもない
だがこの無所有を印づけたあそこが ひとりの億万長者の息子の心を奪ったのだ
この世にも快い白人駐留区でのこの醜聞 そりゃ盗まれる男が悪いんですよ

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    理窟

「もうお終いだ 分かってるよね おまえはもうこの植民地では結婚できないだろう
あたしは肩をそびやかして笑う あたしはどこでだって好きな時に結婚出来るわよ」
だがこれらのパロールは二重の意味でものごとの核心をついている
あたしはここでも 今後どこにいても結婚という制度には縛られないだろう

「彼女はさらに尋ねる お金のためだけなんだね おまえがあの男と会っているのは
あたしはためらい それからお金のためだけだと言う 彼女はあたしをじっと見つめる」
そう いつもこんな時なのだ 理窟さえ通ればなにごともなく過ぎてゆくパロール
だが見つめられた目の中で あたしはあたしのエクリチュールを捜さねばならない

「おまえ みんなに好かれているの? あたしは答える そうよ やっぱりみんなに
彼女は言う おまえがみんなに好かれているのは おまえがおまえであるからだと」
母もきっとそのことで安心が欲しかったに違いない 自分がみんなと同じだという確信が

だがあたしはさらに先に進まねばならない ひとびとの見つめる白い目の中を
ひとびとに勘ぐられながら ひとびとに蔑まれながら さらに白いこの体で
その時 間髪を入れずに母が言う 薄汚れたねえ その白い絹のワンピースも

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    緯度

「彼が彼女の体に狂って以来 娘の方は自分の体つきの細さをもう苦にしなくなった
そして母親の方も この娘の体つきがなんとか納得できるものだと受け入れた」
十三 十四 十五は ほんとうに女の体の入り口だ 誰もがここで服を脱いで
それからまだ薄っぺらな胸に 思いっきり夢をため込んで誰かの承認を待つ

「男は言う この国で この耐え難い緯度で何年もの月日を過したために
すでに彼女はインドシナの娘になってしまったと」 あたしは確かに
この国の娘たちのようにほっそりした手首をしているし 髪も同じだ
そしてこの陽に灼やけた顔と いつも湿り気を帯びた肌もすでにインドシナのそれだ

ショロンの愛人は この白人の娘の思春期のみずみずしさに馴染んでしまった
彼が毎晩 娘の体で味わった悦楽 それは彼の時間のほとんどを吸収してしまった
こんな愛はいままでに味わったことがないと つくづくと知れる彼の時間

だがあたしは思う あのひとはただ単に知らなかっただけなのだと
そしてあのひとは 自分が知らなかったのだということをいま発見している
それはこの娘が男を喜ばす方法を この二年間で発見したかのように

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    恐怖

「男は娘をじっと見つめる 両の目を閉じて それでも娘をじっと見つめる
そして娘の顔の匂いを呼吸する 娘を呼吸する 眼を閉じたまま娘の息使いを」
おそらく娘はまだ成長を続けている 時に何かになろうとし
時に何ものにもなるまいと抵抗しつつも それがこの匂いの中に立ちこめている

「この体はほかの女たちの体とは違う 有限ではなくこの部屋の中でさらに大きくなる」
娘はいまここでつくられつつありながら 定まったかたちは持たない
たしかに男の指が 男の接吻がこうまで執拗でなければ
いまこの娘の体は存在しないが それでもそれはここを越えてゆく

「この体はしなやかだ もし男がここであれを始めれば
娘はまた悦楽の中へと旅立つ」 だが日に日に衰えてゆく男の気力は
それはもう娘がここではないどこかで 新しい生を生きると感づいている

そして男はある日 この部屋にひとりで閉じ込められことに恐怖する
娘はまだ男がその気になれば いつでも体を開いて男を迎えられるのだが
このすでに意気地を欠いてしまった男に いったい何が出来ただろう

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    凌辱

「あたしはいつも彼がこのあたしをどうするのか どう扱うのかじっと見ていた
彼はいつもあたしの期待をはるかに越え しかも体の運命はぴったりと合っていた」
生娘が初めて男を知り そして延々と二年も愛を重ねてゆけば
むろん肌は肌で慈しみ合い 気配は気配で互いを凌駕しただろう

だがあたしはことの間に 年若い狩人の影が幾度も部屋を横切るのを見た
「あたしは彼にその年若い狩人のことを話した そのセックスのことも」
その狩人はあたしたちのことを それが初めてのことであるかのように見ていた
それはまるであの寄宿舎のベッドで あたしがエレーヌを見ていたかのように

すると彼の想念に音もなく恐怖の影が忍び寄る それはこの娘を
このわが最愛の娘を森の黒豹のような男が凌辱するという 未だかつてない想念だ
すると彼は狂った獣のように矢も盾もたまらず あたしの上に覆いかぶさる

ひとしきり生き生きとする彼の男のもの そしてこの秘密の鍵穴
そこからこの事態を見ているのは いったい狩人なのか それともあたしか
彼の嗚咽の声を聞きながら あたしはこのエクリチュールをじっと迎え入れる

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    世相

ひとしきり激情がおさまると 男はあたしの頬の涙を舐め始める
そしてこんなにひどく狂ってしまって済まないと言う
ただこの激情が語るこの男の苦悩 そしてこの男の底知れぬ愛
だがことが終わると男は まるで自分の娘を抱くかのようにあたしを抱く

「娘は娘でまた別のことを考えている 娘は母のことを想う
そして急に大声を上げ怒りに泣きだす 事態はどうにも変えようがないのだ」
母の哀しみ そして兄たちそれぞれの哀しみ その上にこの男の哀しみ
あたしのことは放っておいたとしても この世相には手の打ちようがない

「娘はまたあてどなく戯れに男を誘う 娘は男にせがむ 何をとは言わずに
するととつぜん男は黙れと怒鳴る もう欲しくない おまえを楽しみたくないと」
そして娘はたちまち涙の中へ 絶望の中へ 憔悴の中へと突き落とされる

「ふたりは夕方からずっと黙りこくっている 娘を寄宿舎に送り届ける車の中で
男は絡みつくように娘を抱きしめる そし男は言う よかったね
フランス船がもうすぐやって来る きみを連れて行ってしまうよと」

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    転換

「共同寝室の中は光が青い 祭式用薫香の匂いが漂っている エレーヌも眠っている
暑さが淀み 窓という窓は大きく開かれ それでいてそよとも風が流れない」
ショロンの涼しい河べりから戻って来たせいで ここの暑さにはいつも耐えられない
それでもあたしはショロンの男を想って 眠りにつくまでの時間を過ごす

「あたしはもはやショロンの男とは話さない それは彼もまた同じだ
彼はあたしを送り届けたあと たぶんナイトクラブで運転手と飲んでいるだろう」
あれほど言い合った冗談も あれほど取り交わしたパロールも
心と心が擦れ違ってしまうと もはや何の意味もなさない

「母は言う おまえはこれからの人生に決して何ごとも満足しないだろう
いまあたしの人生が あたしの前にその姿を現わし始めたのだ」
だがパロールという翼を失くした鳥に まだエクリチュールの朝は訪れない

「あたしは漠然と ひとりぼっちになりたいんだなと思う
あたしは本を書くことにしよう それがいまあたしが眺めているものだ」
だがこの熱帯の地ではまだそれはやって来ない 何かの転換が必要なのだ

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    弁解

「まだショロンの連れ込み部屋に行っていたが 彼のすることはいつも同じだ
甕の水を使ってあたしの体を洗う それからあたしをベッドに抱きかかえてゆく」
だがそれまでと違ったのは 彼がまったく力を失くしてしまったことだ
彼の体臭に いつしかあたしは阿片の匂いが混じっているのに気づく

彼もまたその父と同じく阿片の人となり果ててしまうのだろうか
彼の父の場合は その病気の痛みを和らげるためだったと思うが
どこか酸いような甘い香り 中国はその阿片戦争以来
こんなものにはイギリスの侵略とともにしんそこ反吐を催していただろうに

「だが彼の体は旅立とうとしている 男を裏切ろうとしているこの娘を最早欲しない」
そして彼はとても優しい弁解の微笑みを浮かべつつ すでに死んでいた
あたしはきつく眼を閉じて苦悩に耐えていた彼のイマージュを忘れない

何故彼はそのことでつまらなそうにしていたのか それはあたしの方が
まだ彼の愛撫を そしてあたし自身の体の解放を欲していたからだが
おたがいもう会うのはやめようと言いつつ それは決して出来なかった

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    喪失

「出発の時刻が近づくと船は汽笛を三回 長く長く恐ろしい力で鳴らす
その音は町中で聞えた そして港の方の空はしだいに暗くなっていった」
それから船がタグボートの引綱を解くと もう一度恐ろしい嘶きの声を発する
その声は神秘的なまでに悲しく そこに集まったすべてのひとびとの涙を誘う

「彼女もそうだった 彼女も泣いた 涙を見せずに泣いた」
彼が中国人でなくフランス人だったとしたら ことはまったく違っていただろうが
あたしはそのときフランスの郵船会社の駐車場にあの黒塗りのリムジンを見つける
白い服を着たあの運転手のせいで その後部座席に彼がいることが分かる

ひとは些細なことですぐに別れる ちょっとした挨拶で
だがそれは出会いが些細だからであり すぐにひとは自分をとり戻す
かくしてもこんな別れがあろうとは 来る日も来る日も愛だけを交わした日々と

あたしはここ仏領インドシナを後にすると パリで大学に進むだろう
だが十八歳であたしは充分に歳老いてしまった ここですべてを喪失した
このインドシナでの最後の二年間で あたしはあたしの青春を失くした

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    厳命

「この航海の途中 同じ大海原を渡っていたあいだのこと
ひとびとの寝静まる夜がすでに始まっていた
そのとき突如としてショパンのワルツが中央甲板のサロンで鳴り響いた
それは彼女がひそかに しかも懐かしさとともに知っていたワルツだ」

「音楽は暗い客船内のいたるところにひろがっていった
何かしらに関する天からの厳命を聞くように 彼女はすっくと立つ
それから彼女は泣いた あのショロンの男を想ったからだ
そして彼女は突然自分があの男を愛していなかったということに確信がもてなくなった」

彼女は愛していたのだが彼女には見えなかった愛 それはこう言ってよければ
偏見が 依怙地が 人種差別というあの街にはびこっていた旧弊が招いた誤ち
二年ものあいだそこで過ごし 愛しかなかったあの部屋に欠如していたのはその認識

そしていまようやく もうそれが手の届かなくところで彼女はその愛を見出したのだった
あのいつもごたごたしていたショロンの喧騒の中の連れ込み部屋
それから来る日も来る日も甕の水で洗われたこの体 ここに愛がなかったとしたら

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    映像

長い人生には あのときあそこにいなかったらと想像することがあるが
どの瞬間にも そこにいるしかないのもまたそれぞれの人生で
あたしはいつもあの風景に引き戻される あの原風景に
メコン河は滔滔と流れ その渡し船の上にあたしはいた

「あの映像のことを考える いまでもあたしの眼にだけは見えるあの映像
それは同じ沈黙に包まれたまま こちらをはっとさせる
自分のいろいろな映像の中でも 気に入っている映像だ
これがあたしだとわかるイマージュ 自分でもうっとりとしてしまう像

言い添えればあたしは十五歳半だ メコン河を一艘の渡し船が通って行く
そのイマージュは河を横断してゆく間中 永遠に持続する
そして黒塗りのリムジンから中国人の青年が降りて来てあたしの横に並ぶ

それは偶然でもあり そして必然に裏打ちされた瞬間
彼が意を決して煙草を差し出す指は すでに極度の緊張で慄えている
それから流暢なフランス語で お嬢さん如何ですかと言う

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    幸福

以上のテクストは とある出版社がわたしの写真集を出版したいので
その写真につける文章をと依頼されたので成ったテクスト群ではある
だが写真に依って呼び起こされた記憶はどれも生々しくて
テクストの要請は短いものだったのに それを超えて自己増殖を始めた

この本の映画化が持ち上がった頃 わたしは人づてに彼の死を知った
「わたしはその頃執筆中の仕事を放棄し この本にはまだなかった
男と少女をめぐっての世界に おおよそ一年の間のめり込むことになった
その一年の間わたしは狂おしいほどの幸福感の中にいた」

「わたしは一年の間この小説の中にいつづけ 中国の男と少女の愛の中に閉じ込められていた
わたしはいつしかヴィンロンの渡し船に乗って メコン河を渡った時の年齢に戻っていた
わたしにはあの中国の男の死が あの男の肌やセックスが死を迎えたとは考えられなかった」

わたしはあの時代 あの街 そしてそこにいた人々と一緒に物語の中にいつづけた
わたしはすでに著名な小説家 あるいは映画作家として世に知られていたが
わたしはもう一度まだ初心でか弱い わたし本来の裸の小説の作者に戻ったのだ

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    眼差

「扉 男はその扉を開ける 中は薄暗い 意外なことに慎ましい室内
あたし好きよ こんな家 二人はもはやお互いの顔を見ない」
それに向かってぎりぎりのところまで近づいてゆく二人 この連れ込み部屋で
「すべてを欲しい 可能なかぎりすべてを欲しい」と少女は思う

「少女の眼差が男の方へと向かう とても生き生きと幸福感を煌めかせて」
男はたぶんいつもこの部屋を使っている いろんな女をここに連れて来てあれをする
少女はそんなことに臆することもなく その中の一員になることを選ぶ
だがまだ男は少し怯えている 少女があまりにも若すぎるからだ

「どうやっても感情の波を支配できないんじゃないかって きみに」
少女は黒いリボンのついた帽子を脱ぐ 足から靴をふり落として拾いあげない
男は言う 「奇妙だな どうしてこんなにきみを好きになるなんて」

「男は少女のドレスを下の方から持ち上げて脱がせる
それから白い木綿のパンティを滑り落とさせる
男は言う 少し怖い? その時あたしは確信する この男に愛を抱くことを」

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    苦痛

「きみに痛い思いをさせることになる 少女は知っていると言う
男は少女に眼を閉じなさいと言う 少女は眼を閉じるのはいやと言う」
こののちに記されたテクストの中では じつにパロールは雄弁だ
まるでそこで生きているかのように エクリチュールの影を葬るかにも見えるが

「眼を閉じて 少女はその滑らかさに 金色に 声に 怯えている心に 触っていた」
それから沈黙し涙を流しているにも関わらず 中国の男はあれをする
それはあたしの人生から涙を奪い取る試み そして新たな涙を生む試み
ひとはなぜあれをする それだけが身を挺してできる唯一の証しであるかのように

「痛みが少女の体にやってくる 初めに鋭い痛み それからどうしようもない痛み
じつはその時だ その痛みはどうにも我慢できないほどになって変わる
その痛みは体ぜんたいを捉える 頭を 体の力のすべてを 思考の力のすべてを」

「そしてその痛みを呻くのが気持ちいい その痛みを叫ぶのが気持ちいい」
やがて苦痛は組み伏せられたままの痩せた体から離れる 頭から離れる
だがいまやこのすっかり踏破され 血を流している体をパロールには追えない

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    比類

「彼女は思い出す 海の響きが彼女にまた聞こえる
そしてそれを書いたということをあの中華街の物音とともに それを思い出す
あの日は 愛しあう者たちの部屋の中に海が現前していたと
それは 愛するという未知の幸福感の中に溶け込みつつ」

彼女はこの日のあのこととともに男を愛し始めたのだろうか
先のテクストではひたすら 男を愛してなどいないと多寡を括っていたのだが
それにしても それにまだ先行するテクストがあったのだろうか
「これは本だ これは映画だ 夜 ここで語る声は本の声」と冒頭にあるが

「それは書かれた声だ 沈黙の声」 彼女はすでに日記でもつけていたのか
彼女の来歴からして すでにランボーでも読んでいたとも憶測できるが
そして彼女は書く 海のほかに単純という言葉と 比類なくという言葉を

たしかに処女の喪失は それなりに事件だったかも知れないが
比類ないといえば比類ないことだったのか 中国の男とあれを交わすということは
そしてそれはあまりに単純すぎる ここで繋がれた鉄鎖の二つの輪を指していたのか

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    挑発

「彼らはレストランの入口にある全身大の鏡の前を通りかかる
少女は自分をじっと見つめる その服装は渡し船で男と出会った時と同じだ」
あたしは疲れている だが鏡に映った少女は 強く引いた唇のルージュは
この歳の少女にしては たとえすり減った踵の靴だろうが可能な限り挑発的だ

「きみ疲れた顔をしているね ううん そうじゃないの あたし年を取っちゃった
彼女はすでに 彼女の生涯にわたる破壊された顔をしている」
それは夕方から夜にかけての愛の行為があまりに激しかったからか
このあとも そして生涯この愛はあたしを苛みつづけるだろうと分かる

「ほんとうだ 一晩にして 彼は眼を閉ざす おそらく幸福感に充ちている
その時 レストランの奥から銅鑼の壊滅的な響きが届いてくる」
彼が眼を開けたとき そこに見えるのはきっと破壊された挑発そのものだ

「少女は男の方に顔を向けてだしぬけに笑う 幸せって一遍にやって来るのね」
あたしはここで このレストランの中で 可能な限り反復する
先ほどまでの愛の激しさを まるでエクリチュールをそこに迎え入れたかのように

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    自由

「破壊しにと彼女は言う 彼女は男の持物となる
この男だけにひそかに身を売って 物体のように委ねられる」
どうしてこの華奢な腰に男のものを迎えられたのだろう
だが彼女は思う たとえ十二歳でこの男と出会っていてもそうしただろうと

「この男だけに盗まれて この男だけによって所有され 貫かれて
それでもなお 未知の物体にひとしいひとりの少女」
破壊してとあたしは言うだろう その男の裸の欲望で 裸のエクリチュールで
このあたしのアイデンティティを なにひとつ富を持たぬこの体を

「そんな状態を名づける言葉なんてない 時のはじめから誤った言葉」
もしこんなあたしに言葉を振りつけるとしたら それは汚辱だろうか
そう ここは淫売屋だ 盗まれて 男に所有を占有されて明け渡す自己

あたしは海の音を聞きながら その波の力にもてあそばれる
それはあのどうしようもない家族の絆を断ち切る快感の中で
あたしはいまにも溺れながら 時の初めから自由だったことを確認する

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    絶望

「きみを知るまでは 苦しみなんてまるで知らなかった
自分では知っていると思っていたけれど 何も知らなかったんだ」
「少女は立ち上がり 男の方へ行き 男の服を脱がせてから水盤の方へ引き摺ってゆく
それから雨水のシャワーを浴びせかけ 男を愛撫し 接吻し 話しかける」

「男はとても静かに泣く 泣きたいとは思わないのだが
そうやって泣きながら 彼は少女を思いきり愛情をこめて 罵る」
「安物の白人淫売を街で拾ったら こんなざまさ 用心しときゃよかった
それから少女の顔を見て ちびの淫売 まるっきりの屑と言葉を吐き捨てる」

破壊してという言葉が まるで二重の意味で鏡に映っている
男は少女との結婚を父に願ったのだが むろん受け入れられない
それは父が言った言葉だっただろうか それとも彼をしてあたしが言ったのか

「ぼくはもうやれない ぼくは死んでしまった 絶望だ」
あたしは力なく垂れた男のあれを 優しく愛撫し 口に含むと
それがお望みなの もうセックスをしないことがと男に聞く

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    現場

「たった一度だけでいい きみにこう言ってもらいたいな
あたしがあなたのところに来たのはお金をもらうためなのと」
たしかに世にお金は そしてひとの口はいろいろなことを暴露する
そしてこのインドシナで父のいない家族の悲惨さはたとえようもない

「返答までに手間取る 少女はその理由を探る 彼女には嘘がつけない
そんな台詞は言えない 違うの そうなったのはあとになってから」
あたしはその行為のあとで たしかにしばしば男からお金をもらう
けれどあたしはそれらを自分のために使わず 母に渡すだけだ

「男は言う お金が理由だったことを本当のように話してごらん」
男は自分の行為を その夢が叶わなくなってしまったいま
その真実に向かい合うのではなく その価値を下げることで対処しようとする

「彼女には嘘がつけない 渡し船の上では全然お金じゃなかった
まるでお金というものがこの世に存在しないみたいだった」
あたしはここで正直にならなければならない 少なくともエクリチュールの現場では

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    流産

先月あたし子供ができたのかと思った ほとんど一週間メンスが遅れたの
始めは何故か分からないけど怖かった それから血が出て哀しくて口惜しかった」
少女は毎月それを確認する このあまりに脆い女の体を
それは毎月やって来て パロールが流産したことを知らせる

「初めはその子がどんな子になるかなって想像していた
はっきりと眼に浮かんだのよ あなたのように中国人みたいなの」
白人と現地人の混血の子は この街にも学校にもたくさんいる
だけど決まって父が白人で 犯られた現地人が母だ

「男は何も言わない お父様はこの子の場合には折れたかしらと彼女は訊ねる」
その期間でも男は気遣うふりをしながらでもそれをした それが愛とばかりに
それから 決して成就しないこの不在の入口に みずからの夢想に口づけする

「少女は男が泣いているのをじっと見つめる それから男から身を隠して泣く」
男は幾度もいくども意を達してきたが それらすべてが絶望に変わる
男はそれからそれらすべての無償を確認すべく その血のあとに口づける

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    真摯

「男は両腕を伸ばして少女を捉え その顔をもっと見ようとしてじっと見つめる
彼はこの物語の終わりを前にして 永遠にこれを最後と少女をじっと見つめる」
その時あたしの顔はすでに老いていただろうか この愛の苦悩に耐えきれずに
ただあたしはこの男の真摯な眼差に耐えられず つい本当のことを言ってしまう

「何かぼくに言いたいんだね ええ あたしは嘘をついていた
あたし十日前に十五歳になったの そんなことは構わないと男は言う
泣かないでおくれ 中国人というものは 小さい娘たちが好きなんだよ」
それは知っている 彼らは気に入った子を見つけると 三歳からでもそれを買う

「彼女はそれをやる 彼女は悦楽の中で 男の名前を中国語で言う」
構わないのよ たとえあたしが六歳でも十二歳でも そうすれば
そしてあまりにも絶望的な性癖が ここで毎夜繰り返されたのだろう

「ぼくのちびちゃん ぼくの娘 彼は動けなくして彼女の口に接吻する」
そう そうすればいいのに あたしに そしてあたしの家族に援助などせず
フランス汽船の旅費など手配せず 欲しいままに いつまでもその心のままに

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    不能

「少女は起きあがり ドレスに腕を通し 靴を履き
ランドセルを背負ってから 連れ込み部屋の中央に立っている
男は眼を開ける もう少女の姿が見えないように顔を壁の方にそむけてから
少女のことは覚えていないような穏やかさで もう来ないでと言う」

「もう絶対にね たとえあなたが呼んでもね 少女は出てゆき扉を閉める」
そしてランドセルの中には フランス郵船会社の家族用のチケットと
向こうに帰国してから当分の間やってゆける生活費が入っている
「それから少女が車のところまで来た時になってやっと男は叫んだのだ」

「それは暗く長い叫び まるで吐き出すような不能と怒りと嫌悪の叫びだった
それはむかしながらの支那が発した叫びだった それから
突然その叫びは痩せ細って 慎ましい嘆きの声へと変わった」

ここで この連れ込み部屋で 欲しいものを欲しいまま分け合った時は終わる
ここで 中国の男はいつもそれをした あらん限りの優しさに身を挺して
華奢で 初々しく 誰も手を付けてはならぬ少女を凌辱し尽くしたのだ

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    物語

わたしはいま 書くという魅惑に取り憑かれている
それはあの時身籠った子を流産した哀しみを埋めるためか
「あたし結婚したかった 愛しあってる夫婦になりたかった
おたがいに苦しめ合うことになるよ そう おたがい可能な限り苦しめ合うのよ」

言葉は追憶の彼方からやってくるに見えて じつは耳もとでしている
熱い息を吹きかけるのだ それはいつも中国の男がそうしたように
それから男はもうこれ以上我慢できないところまで昇らせてから
このあまりにも幼い体に覆いかぶさってきて してはいけないことをする

あのときの痒いような痛み でもそこを掻けるのはあのエクリチュールだけだ
あたしが口に含むとまるで中国の竜のように血の沸き上がるあれ
それからあたしは竜の暴れるにまかせて その白い血を飲み干す

これは無かった物語だ 貧しいふたりのとり返しできない愛は
これはわたしのペンが生んだ幻想の物語 見果てぬ夢
けれどわたしはいつも戻ってゆくだろう ここにしかなかった愛の物語に

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    強度

「男は少女をあらん限りの力をこめてじっと見つめている 両方の手で男は少女の
顔を何度もなんどもむきだしになるようにゆっくりと撫ぜてから少女を見るのだ
ついには意味が消えてしまうほどまでに もはやだれか分からなくなるほどまで」
彼は書を嗜んだだろうか この顔からエクリチュールを消すという行為は

「少女は言った 何故かと言うと 自分で苦しまなければこの物語は理解できないと
もし苦しまなかったら? その時はやがて何もかもが忘れさられてしまう」
人種の違い 文化の違い そんなものはどこまで行っても表象の世界だ
顔がその強度によって裏打ちされているのでなければ 愛もまた然りだが

「少女は男の匂いを絶対に忘れないと言う 男はきみの子供のような体を
毎晩のように この痩せた体を力で犯したことを決して忘れないと言う」
しかし刻々と引いてゆく意味にとって 思い出ははかない

「男は言う こんな幸せ 必死の気も狂わんばかりの幸せを知ることはもうないと」
あたしはその時 もうパロールは心を引き裂くに充分だと思い始める
「そして あたしの愛したひとも あなただけということになる」

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    電話

「戦後何年か経ったころ 飢えと数知れぬ死者と 幾つもの強制収容所と
何度かの結婚と 何度かの離婚と 何冊かの書物と それから政治と共産主義の後に
男は電話をかけてきた ぼくです あなたの声が聞きたかっただけでした」
なんという唐突な電話 あれから数十年を経ての 声と声との再会

「男は言った 自分としてはこの点は不思議だなと思っているのだけれど
ふたりの物語は いまもあの街には以前と同じままに残っている
自分はまだあなたを愛している 生涯を通して死ぬまであなたを愛するだろう」
あまりのことにわたしには 返す言葉さえなくなっていたが

「男は電話を通して 女の泣き声を聞いた」 それはわたしが受話器を
机の上に置いたまま まるで十五歳半の少女になって突っ伏していたからだが
わたしのその時の空白は わたしはこの数十年何をしていたのか

「それから男は何とかしてもっと女の声を聞きたいと思ったが 女はもはやいなかった
女は眼に見えぬもの すでに到達できぬものとなっていた」ふたりはあの日の
別れとともに二度と会わないだろうに エクリチュールの中だけは別だ

                          imuruta
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