走る男
走れ 風に背を齧られながら
唇を泥に埋め 水を嗅ぎ
目を衣と捲くり上げて
このあるかなきかの傾斜をかすめ
皮膚ににじむ血と焦げ
一閃の予感とただれ 一陣の音とみだれ
生きとし生けるものの声をかぎりに
荷車の音は途絶え 土は乾きを極め
見張り台の影ばかりが長々と地面に伸びる
頭から頭巾をかぶり足早に街道を横切る者も
柱を背に蹲る者も いちように口を噤んだままだ
狂女は樽に潜り込み 賢者は石に伺いを立てるばかり
間道をはだか馬は西へと走り去り
彼方の森には 幾本もの細い煙がのぼる
子孫の絶えて久しい村人たちは
不安げに穴を掘り そこで最後の知らせを待つ
おお 身を屈め ひたすら目を閉じて待つがいい
だが 戸口に錠は立てるな
樹液は幹を逆流し 葉は頼りなく小首を振り
庭に並べられた甕はとうに底が抜け
黄金の葡萄も枯れた蔓が風に揺れるばかり
熱病に侵された麦 油壷に浮く蠅
村が滅びる時 ここでは
屋根という屋根に旗を掲げる
砂塵の中で思い出したように犬が吠える
踏み台に乗っても合図は見えないが
まだ腕を抱え上げて振る
古い地図を開き 土に線を引き
断層を読んでも 見つからない
茫々と乱れた髪を撫でつけ
堅い乳首を噛んでも 帰らない
根という根が化石にあたる
古文書を焼け 化石を砕け
食卓は古びた幹と変わり
寝床は木の虚と化して久しい
塩も尽き 水も尽きる
片隅の砂をつまみ ひと息ごとに目を閉じ
靴底の小石のありかを確かめる
木目をなぞり 棘を握り もう一度皿を舐める
だが声を殺し 機会を待っても
この殺伐とした光景にはひとつの影も立ち上がらない
銅貨を惜しむな 犠牲を厭うな
地平線の彼方まで不吉な石を投げにゆけ
握りつぶし切断せよ 掲げ振れ
往き 果てよ
戻り 救え
泣きながら握りこぶしを突き上げ
声という声をそしきせよ
足裏の影を踏み 口中の砂を噛み
葉を蹴散らし 森を抜け
突風のように草を薙ぎ倒し
研ぎ師の目をこっそりと掠め
一番細い刃の上を ひとりひっそりと
説法を破り 教戒を蹴散らし
いっさいの手続きを顧みず
目撃せず 獲得せず
肺腑も破れんばかりに 走れ
ただ呼ぶ声だけをゆいいつ頼りに
imuruta