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​木蘭

朝の髪をモンゴリアンテールに結んで天幕を出れば

低い丘を幾つも越えて 遥か地平線まで草原が拡がる

きみの額を横切るあおい光輪は

吊り上がった目は きりっと紅引いた口もとは

長年の馬上生活で引き締まったからだは

たしかに 馬は手綱で乗るものではない

内股の筋肉で その微妙なちからの入れ具合で

東は黄河流域から  西はカスピの海まで

われらは 旅から旅へと

どれほど無尽に この草原を駆け抜けたことだろう

馬のたてがみが揺れれば きみの髪も揺れる

きみに遅れじと 昇り旗を手について来たわれは

セルジュークの王にも カラキタイの王にも

誰にも 一目置かれながら

だがもう どんな戦いにも厭きたというのか

今きみは こうしてただ故郷を目指そうとしている

きみは夕べも うなされていたようだが

こちらは 毛織のギャベのおかげでぐっすり眠った

馬たちに しばし草を食ませ

われらも鹿肉と干し飯で 簡素な朝食を終えたら

おお また駒を進めよう

きみの名は 木蘭

枝に白い花の咲く 誰もが喜ぶ五月の生まれ

わが名は 斐 帝子

あまりの寒さと強風で雪さえ積らぬ 極寒の正月生まれだ

   *

闇のなかで声がする

親が子どもをあやすようで

子どもが親の乳をねだっているようにも聞こえる

ときに こらえた息をたまらず吐く音もするが

大きな傷を負って ひたすら痛みに耐えているようにも思える

それは 言葉を覚えはじめたばかりの赤ん坊が

目のまえにいる神と話しこんでいるようにも聞こえる

つぶやき 笑い といかけ 拗ねる

おどろき 聞き あやし 諭す

ちかごろ夢のなかでよく この声を耳にするが

それはまた 毛皮を脱いだ毛ものたちが闇のなかで

ひたすら その名を呼びながらまぐわっているようにも聞こえる

そんな夢をみるようになったのは

ちょうど 中央指令室から極秘の暗号が来てからだ

暗号はまだ そのすべては解読できていない

   *

今夜は 月の光りに照らされて 

夜の木々も 天上に立つ龍木のように銀色に輝いている

ときどき 風に乗って狼の声が聞こえてくるが

あれは草原に おんなをさがす声か

狼たちは きそって月に向かって吠えるが

それは 肉食の業をなげく声か

それとも 後生のすえは畜生道を解きたまえと祈る声か

月に赦しを乞うたところでみそぎ出来るほど業は甘くないが

いずれ今夜も 赤ん坊のようなうぶな肉で腹を満たしたいだけだろう

とりあえず焚火に多目に枝を足し ギャベに包まれば

やつらに襲われることはあるまい

   *

おれたちは ともに哺乳網有蹄類で反芻動物だ

染色体58本で歯は32本だが上あごに歯はない

ひとびとは単に羊と呼び捨てるが

反芻するのは草だけではない 夢も反芻する

これから追うことになるのは 

小形のアジアムフロン系に近い連中だが

おれたちは より原種にちかいアルガリ系で

ムフロンたちの倍ちかい体格を有している

やつらに追いつくのは時間のもんだいだろう

それに 中央では単にアルシーヴとしか言わないが

やつらはほうぼうに これみよがしに 

夢のかけらを落として行っている

まるで木で鼻をくくりながら

それがどれほど致命的なことかなど知りもしないで

   *

毎晩まいばん青い羊に襲われる夢をみる

どこか アルメニアの高原をひとりで歩いていると

羊がひづめの音もたてず近づいてきて

急にうしろから押し倒して わたしの唇を奪おうとする

わたしは 腰の短剣を抜いて

そいつの喉首を掻き切ろうとするが

とても大きなからだでのし掛かられると

もう撥ねのけることもできず

あがいてあがいて すんでのところで次の攻撃をかわすと

起き上がりざま 羊の顔を蹴りつける

すると 何度もなんども蹴られながら

羊は血みどろになりながらも笑っている

そして こう言うのだ

逃げられると 思うなよ

夢は どこにいてもつながっているんだ

おれたちは 夢の抜け道を使って

いつでもおまえのそばにいられるんだと

そこでいつも目が覚める

   *

おれたちは きみらから見れば

ただの 青い羊に見えるだろうが

おれたちは 草なんか食まない

おれたちの好物は きみらの弱いこころなんだ

よわいこころはじつにいい匂いがする

ぴくぴくして うずうずして いじいじして

まるで子兎のくちびるみたいにふるえているんだ

そうだ そして貧しければ貧しいほど 口にだしてよく祈る

それは じつは花なんだ

この花は おまえたちには見えないかもしれないが

かならず天に昇って その美しい莟を開かせるんだ

じっさい 天の朝露にぬれて

ひくひくしてる兎の唇ほどうまいものはないからな

おれたちは ねぼすけの神々が庭に出てくるまえに

ひとつづつていねいに摘み取って

その貧しい祈りを 喰っちまうんだ

それは ある日のこと

美しい五月のことだった

枝からこぼれんばかりにマグノリアの花が咲いていた

花はどれもそうだが 人びとの貧しい祈りのかずだけ咲いていた

この花の下に ひとりのみどりごが生まれることを

おれたちは 前もって知らされていた

その子は長じて 多くの人びとの魂を掬うといわれていた

だから 生まれおちてすぐ

天使が祝福にやってくるまえに 

おれたちは ちょっとした魔法を掛けて置いたんだ

   *

それは西のいくさがようやく終わって

ちょうど アルメニアを過ぎたころからだった

青い羊の夢をよく見るようになったのは

昔から 獏は悪い夢を喰うといわれて珍重されてきたが

青い羊は 良い夢を喰うと恐れられてきた

ある日 音もなくひとのこころに忍びこむと

甘くやさしい恋のうたをうたって つよいこころをくじく

それは ひと知れず国王の心の中に入ると 

日を置かず やがて国をも滅ぼす

それはまた 天上に棲む龍にもたとえられてきた

龍はまだ子どものうちに 天人の心のすきまに入りこむと

うまく言い寄って 玻璃の羽衣を剥ぎ

月の世から まっさかさまに地上に堕とすと

ああ 道とは 柔和なこころとは

はだかで凛としながら 如何に歌に酔わぬこころがあろうか

   *

おれたちは 中央からもらってる暗号表を使って

おまえたちの容姿と だいたいの足取りまでは読み解けたし

わが種族特有の夢判断でここまでおまえたちを追い詰めたが

その先が どうやら西洋文字で綴られていていて解けない

それはこうだ QUERICO COQUERICO YUMEMINARDEだ

​どうだ 心当たりがあるだろう

   *

残念だが われらはの生粋の漢生まれ

どうしてカスピより西の国のことばなど知っていよう

じゃあ 意味は分からなくても音を付ければどうだっ とかしらが言うと

それはそれはやさしい声で

むずかる赤ん坊をさとすかのように

聞いたことのない節回しでうたいはじめた

そのしゅんかん 夢のようにひとりのおんなの姿が見えた

おんなは馬頭琴のような楽器を操りながら

ある瞬間 あろうことかひだり手で 

地上にはないはずの全和音を押さえたのだ

それを見ていた青い羊の一頭が目の前から音もなく消えた

そら 夢の抜け道を使えば

いろんなことが どんどん前に進む

もういちど 歌ってみるから聞きなと言った瞬間 

かつて南の方の国で

シッタールダとかいうなまえの王子が乗ったという白い象と

どこで見たのか思い出せないが

一羽の黒いつばめのすがたが見えた

そのしゅんかん青い羊たちは もうこともなげに消えていた

だが 闇のなかからこんな声がした

CHIE って名の母さん象は掴まえてあるんだろうなって

   *

起きろ木蘭 起きろ どうしたんだ木蘭

わが腕にその頭蓋をかかえ上げると

木蘭は ひたいにひどい汗をかきながらふるえている

それは なにか身籠ったいのちを

いまにも生み落さんとしている母象のような

逃げてにげて もうこの先がない

崖っぷちに立たされた子羊のようにも見えた

ここで起こさねば木蘭のいのちが危ないと思われたときだ

しかしその表情にふっと安堵の色が見えた

   *

ふと 目を上げると 

西の空にからすきの星が掛かっていた

星は月よりまだ遠く

地上で生まれるかずかずのもの語りを見下ろしながら

それでもこの 夜が明けるまでの数刻

神の庭で起こった奇跡のような挿話に

こころを奪われ続けていた

                  imuruta

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