月落烏啼霜天満 江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船
臨書が一枚終わると ふと遠く寒山の雪渓が見えてくる
おもむろにもう一枚取り出して 諳んじている山行に取り掛かる
遠上寒山斜石径 白雲生処有人家
停車座愛楓林晩 霜葉紅於二月花
処々方々から墨蹟を取り寄せて 色々尋ねるも
そろそろ新たな流派を立ち上げては と言う弟子もいるが
つれづなるまま いつまでここに居れるやも知れず
*
いましも流れ落ちてくる滝のごとく その飛沫のごとく
水のごとく 音のごとく 花のごとく強くひびく 生々しい弦の調べ
そのさま虚空から舞い落ちる雪のごとく 降りしきる花のごとく 散りかかる時のごとく
まさに泣くがごとく つのるがごとく 降り注ぐがごとく
ときめくがごとく いつくしむがごとく 恋い焦がれるがごとく
そのさま なれ初めのごとく あこがれのごとく
この岩を抱き その岩を包み わき目も振らずひたぶるはしる 水また水の早瀬
あの岩に砕かれ どの岩にすがり 愛でるがごとく のめりこむがごとく
いましもささやくがごとく 泣きくずれるがごとく
ちぎりを結ぶがごとく あだ情けのごとく
いっこくとしてとどまることのない 身を焼く曲を想うやまい
*
夢をみていたのか 知らずしらず眠っていたのか
重いあたまをめぐらすと 誰か毛脛がみえる
いまに目を覚ました ばっぷくどんでもあるまいに
両手で顔を防御しながら素早く跳ね起きると 顔の在り処をみた
不敵なつらがまえに くちびるの端が嗤っている
おれより数段でかい上に腕もたちそうだ
そいつは みぎの頬をことさらふくらませると
そっけなく 臍から指示が出たと言った
*
このごろ よく夢をみる
それはオリーブの木々が風にそよいでいる のどかな景色を見下ろしながら
小高い丘のうえを飛んでいる夢だったり
夜のブーローニュを ひとりでさ迷っている夢だったり
たいてい 脈絡のないとりとめのないものだが
すばらしく大きな リンデンバウムの梢のあたりから
言いようのないほどたくさんの天使が舞い降りてくる夢もみた
目覚めるとたいていポカンとしているが
その朝は どこか違っていた
大天使ガブリエルのような人物が 右手の指を二本立てて
何か分からないが伝えたそうにしている
そこで まだ夢のつづきにいると思ったが
横で ハルがたてている寝息の音もしっかり聞こえていた
*
それは 鳳凰木の朱い花が散り零れる午後だった
どこから迷い込んで来たのか
いっぴきの子犬が足もとにじゃれついて ゆく手を阻んでいる
子犬は ズボンの裾に咬みつくと ちいさいくせに低い唸り声をあげている
反対の足で踏みつぶすくらいたわいないことだが
こんなにちいさくても なにか必死で守らねばならないものがあるのかと思うと
どこか不憫で 口のなかでふたつみっつ呪文を唱えて退散させたが
何故か気になって振り返ってみると おおきな獏の背中がかぶさっている
いっしゅん背中をさむいものが走り
とつぜん 命びろいしたのはこちらの方かも知れないと思う
*
なにを思ったか ハナが次のバカンスに
中近東のトルコに行こうと言い出した
さいしょ 半信半疑だったけど
どちらにしても二人とも仮り暮らしだし
長いバカンスのあいだパリにいてもすることもないだろう
それにどうやらハナは ながく会っていない弟のことが気になるらしい
アルハンブラで ながい追跡行に終止符をうって
弟の捜索を放棄したってはなしは聞いていたけど
やはり たった二人のきょうだいだ
子どものころはずいぶん慕われていたらしいし
ハナも上達したギターを 弟に聞かせたかったのかもしれない
風のたよりで ローマで音楽の勉強をしていたことまでは分かっていたらしいが
そのあと どうやらウィーンへは行かず 中近東を目指して歩きだしたらしかった
*
レンタカーのシトロエンを駆ってオルリー空港に着くと
搭乗ゲートはすでにバカンスに出掛ける人々で ごったがえしていたが
目指す二人は 生来の毛もの同志の勘で すぐに見つかった
ハナは 黒い立て襟のブラウスに おおきな花柄のスカートで
ハルは うす手のワンピースで じまんの足を惜しげもなく出していた
目立つといえば目立つふたりで 周囲とはすこしばかり雰囲気が違っていた
ただ 困ったことにふたりはペット用のケージを持っていたことだ
どうやら先日 公園でみかけたあの子犬のようだった
まあ ケージのなかにいるかぎり回りに危害が及ぶことはないだろうが
われわれ夢を読む種族にとって 近親ともいえる輩は歓迎出来なかった
いずれ かのじょたちが目を放したすきにケージごと闇に葬る以外に手はないだろうが
*
その日は天候も良く 晴れて視界もよく効いたし
ケージのイディッシュも大人しくしていてくれた
飛行機もアルプスの山々を見下ろしながら
ゆうゆうと飛行していたが どうやらお腹がすいたとみえて
給油のために チューリッヒ空港に降り立った
ちょうどいい機会だと手洗いに立つと どこから乗っていたのか
いちばんうしろの席に おおきなターバンを巻いたひとがいて
ちょうど網だなから 小型のスーツケースを下ろそうとしていた
そのとき急に機体が揺れて 危なく足を踏まれそうになって避けたが
わたしの声に驚いて 荷物を取り落しそうになり目と目が合った
こんなブルーは見たことなかった
セルリアンというのか ターコイズというのか
南太平洋の珊瑚礁のうみで
たまたまウルトラマリンたちの産卵現場に居合わせたような
青はじっとはしていなかった
メスをめぐって その交尾のために動き回っていた
思わず目まいを覚えたが そのひとは反射的ににこやかに笑うと
ウルトラマリンたちを逃がさないためにか
失態を隠すためか 眉間に皺をよせると強くまぶたを閉じた
*
しくじった 顔を見られてしまった
それも 目のおくまで
まだ ハルでよかったが ハナだったらと思うと
思わず背筋を冷たいものが走った
いますこし アンカラに着くまでは時間があるし
かのじょらも手のうち同然だったので
王羲之の墨蹟をみておこうとしたのが間違いだった
かれの筆跡はよわい それはこころの弱さの表れだが
よわさのなかに なにが隠れているのか見届けたかった
まさか 青泥で塗ってきたので
そのおくに潜む うおたちまでは見られなかったと思うが
いずれ だれの目のおくにも魔ものがひそむ
*
それは 給油のためにベオグラードに降り立った時だった
前のほうの座席の人たちが十数人降り
代わりにユーゴのひとたちが乗り込んできたが
こちらではひどい雨ふりでもあったのかみんなひつようにずぶ濡れだ
それぞれ寒そうにしているが 着替えは大型のトランクとともに貨物室なのだろう
イディッシュがおびえて ひくい唸り声をあげてケージの柵に咬みついている
この犬種の特徴で いちど咬みつくと 槍が降ろうが雷が鳴ろうが放さない
困った顔で ハナを見ると
ハナも困惑したようすで でも大丈夫よと言った
あの人たちは わたしたちよりもっと遠いところまで行くけど
そこは常春の素敵なところだから
わたしたちはいまはお祈りしてあげるだけでいいのよと言った
*
ほどなくしてアンカラに着いたとき 臍から二度目の指示がきた
ハルはどうしようもなければ 今回は見逃してもいいが
かならず ハナの方は手つかずのまま連れてこいと言うものだった
舐めてる おれにおんなふたりぐらいの下のめんどうを見させておいて見くびられたものだ
おれだったら ふたり分の月のものでも咽んでみせるぜ
生かすの殺すの おれ義和少林寺出の腕も ずいぶんちいさく見積もられたものだ
欠に穴してな おれを臨模とな 籠字とな
おれを誰とこころえる われこそは時運 王維
国破るるが その人有りと歌われたおれを
*
ハナは何か時節をよみながら 執拗に聞き回っていたが
わたしは ただバカンスを愉しんでいた
市場の店先に並んだ季節のくだものを見ているだけでもたのしかったし
あちこちに見える モスクの屋根も珍しいものばかりだった
つと小石に蹴つまづいて だれかの肩に手をおくと
もっと遠く はるか東方からきた人のうでに掴まったりしながら時間は流れていった
ただ不思議だったのは ここは東西の交通路の要めともいわれるが
仕事に追われないからか あちこちの時間が入り混じって
角を曲がったとたん たくさんの三角旗のはためく鐘の鳴りやまぬ町に出たり
まるで猫が踊っているダンスホールに迷い込んだり
猫はまた そのながい尾をみぎに左に揺すると
星を読みながら いましもここにやってくる奇蹟におもいを馳せている
*
三度目の指令がきた時だった
数十年まえ
まだ少林寺のむしゃ修行に出ていた頃のことをふと思い出した
青い羊の皮をかぶって風に化けたやつらと
焚火を囲んで一夜を明かした
やつらも何か臍からの指令で
ほうぼう嗅ぎ回っているようだったが
明け方になって発つまえ
智慧がどうのこうの言っていたが聞き取れなかった
ここにあるCHIEという文字は
あの夜のことと何気なし関係があるのか
あの道をたどってゆけば
まさかここにもどって来るでもあるまいに
花とな 時運とな 永劫回帰とな
いずくになにを以って智慧といわんや まして臍をしてや
天気晴朗にして 末いかばかりならん
*
夜の湖はなめらかに凪いで
鏡のように音もなく月のすがたを映している
さっきからすこし眠ってしまったのか
そばに居たはずのハナのすがたが見当たらない
イディッシュもたぶんハナについて行ったのだろう
でも耳を澄ましてみると コツコツとあるいはカツカツと音がして
なにかひづめを持つものが こちらに歩いてくる気配がする
ひづめの音のほかにも ひじょうに遠いところから
澄んだ鈴のおとが聞こえてくる
それはなにか よろめいた振りをして肩からぶつかってみたり
遅れたふりをして 甘えながら小走りに走ってくる子羊の足音みたいにも聞こえた
音のしてくる方を その場で立ってかくにんしてみるが
ぜんたいに薄いもやが掛かり 月の反対方向は見通しが効かない
鈴は 鈴の音は どうかここにいるのではやく見つけてと言っているかにみえて
耳のなかでいいので すこしあたためてちょうだいと
鼻にかかった声であまえているようにも聞こえた
いずれ道に迷ったものか
はっきりした意志で ここに道をみつけたものか判然としないが
そのどこかかわいらしい足音からして 危害をくわえるものではなさそうだ
それにしてもハナはと 湖のほうに目をむけたしゅんかんだった
湖面のなかほどに ぼんやりとひとかげが見える
なんだ あんなところにいたんだと声をかけようとしたとき
足をひっぱられて つまづきそうになった イディッシュだった
なんだ いつからここにいたのと抱き上げてもういちどハルをみたときだった
いっしゅん 心臓が止まりそうになって ぜんしん総毛だった
ハナはこちらにゆっくり歩いてくるが こちらに歩いて行っている
むこうにあるいて来ていた
それは とにかくはじめて見る光景だった
ハナは あきらかに水のうえを歩いていた
ハナが ちいさなさざなみを立てながら
ちょうど こちら岸の砂にあしをのせたとき
それまでわすれていた息を吐きながら
どうしてそんなことが出来るのと聞くと
にっこり笑って 子どものころ母さんに教えてもらったのと答えた
そして 母さんは何でも知っていた
母さんに分からないことは何ひとつ なにひとつなかったって自慢げに言った
わたしが 感動のあまりそこに膝まづいて ハルの腰に手を回すと
なにか照れくさそうに笑いながら でもわたしはハルと同じ
母さんほどには 何も知らないのよって言って また笑った
*
もう時間がなかった 臍が急いて来たのだ
ところもちょうどよかった
人けのない高原のみずうみにまで観光の足を伸ばしてくれたおかげで
ことは 予想いじょうにすみやかに進んでいた
なにかしゃべり声がして ふたりが抱き合っていた
そおっと背後にまわり 一撃でしとめようとしたとき
右足のかかとに はげしい痛みがはしり手が止まった
犬だ あろうことか犬をわすれていた
思わず右足を振り 払いのけようとしたが
犬は咬みついたまま左右に振れた
軽すぎた
仕方なく左足で踏みつぶそうとしたしゅんかん
ひだりの脇腹を激痛がはしり そのまま倒れこんでいた
羊だった
このあたりによく居そうなやまひつじだった
そういえば鈴のようなかすかな音が聞こえていた
こういう山でよくある 鈴降り現象か
そら耳かと思い うちやっていたが
不覚を取った
痛む右足をみると
あるまじきこと 腱が喰いちぎられていた
*
いいのよ ハルたちは手を出さないで
したいようにさせてみればいいのよ
そうすれば どちらにしても失うものなどないって分かるから
わたしたちは 幻をみているのよ
ぜんあくをすぐに決めたがるのは たぶんわたしたちのほうなのよ
王維には 何一つ悪意はないのよ
文字通り 臍からの指令にしたがっているだけなのよ
そして 臍はどこか遠くにあるものじゃないのよ
臍は王維のちゅうしんにあって 王維のよくぼうそのものなのよ
もともとわたしたちに 失うものはない
処女信仰にしたって もうすぐ時代の方がさきに行ってしまって
そんなものは おとこのがわが造りだした
かってな神話にすぎないってことがすぐわかるわ
ハル 目をそらさないで
あなたには ことのいちぶしじゅうをみとどけて欲しいのよ
わたしのからだは ハルあなたしかしらないわ
でも いいの おんなしか愛せないじぶんでいたら
いつまでも わたしはこのままでしかない
でも あいしてもいないものと じぶんの意志でまじわってみて
もしそこに愛が生まれるとしたら それはひとつのおおきな壁をのりこえたことになるのよ
わたしは なにごとからも逃げない
おおいなる愛につつまれていれば なんだってできるのよ
さあ 王維いらっしゃい
わたしはどこへも逃げないわ
あなたのしたいようにしていいのよ
そのあと 臍に引き渡すなりなんなり 臍の指示をあおげばいいのよ
*
そんなことが出来るものなのか
わたしには しょうじき信じられなかった
わたしが わたしだけが愛してきたハナが
まるで毛もののような王維と交わる
そんなことがあっていいのだろうか
ハナはたぶん わたしもそうだが 処女だ
それなのに 愛してもいない毛だものの欲望を受け入れて
はじめての挿入に耐えられるものなのか
考えただけでも 子宮をげきつうが走った
わたしは かんぜんに思考停止に追い込まれていた
*
王維は 唇を曲げて右のほおにうすら嗤いをうかべると
さっき イディッシュに喰いちぎられた右足を引きずりながら
ほぼ左足だけで ハナに近づいて行った
わたしは思わず そばにあった棒きれを手にとって力まかせに握った
王維は もうなにも言わずハナのからだの上にかさなっていった
やがて ハナのからだがおおきくびくんと動いた
うう というひくい唸りごえがあった
王維は これこそ毛ものといううごきで
ハナのからだの上で あらんかぎりのちからをふりしぼっていた
ハナはハナで いたみにたえながらも両手で王維のつのをもつと
いまにも それを折らんばかりににぎりしめている
いまなら 一撃で王維の頭蓋を割れる
飛び散った脳そしきで あたり一面血の海になるだろうが
それで すべては終わる
わたしが 王維の真上に立ったいっしゅん
つののあいだから ハナの目が見えた
ハナは泣いていた
けれど 泣きながら いまにも泳ぎそうになる目をかっとみひらくと
わたしの目を見返して
おおきく首をよこに振った
*
それからどれほど時間がたっただろう
ふと 気づくと ハナは王維のかしらを抱きかかえるようにして泣いていた
そして あろうことか 王維もまたハルの首にかじりつきながら泣いていた
すべては わたしが気を失っているあいだに終わっていた
imuruta
臨書
注 <ハルとハナ>のイメージに Desiree Dolron女史の Art Work から
Xteriors 2 と10 の画像を引用させていただきました
ここにこころよりの 謝意を表したく思います imuruta