イザーイ
秋だというのにまだ暑い
それにこの国に秋などあるのだろうか
通りに並んだ猫のひたいほどの店からは
威勢よく呼び声が掛かるが
旅のものには その地の作物を山のように積まれても
その珍しい色かたちを
自国の野菜から連想してみることくらいだ
さっき角を曲がったところから方角がくらみ
時差ぼけもあって 動悸がするので
すこし静かなところはないかと捜していると
市場をはずれ おりよく
モスクのお椀を伏せたような屋根がみえて来て
寺院の中ならよかろうと中庭にはいってみると
庭はさすがに静かで これをベンガルボダイジュというのか
なかなか見事な樹が涼をそえてくれる
見上げると 緻密な枝々はまるで亀甲のような絵を描き
どのひと枝も 枝垂れることなく 天空の栄光を讃えている
しばらく 樹下の石に腰かけていると
目まいも取れたようなので
尻を載せていた石に礼を言い 立ち上がろうとすると
さっき入って来た入り口から
旅の一行が数十人も入って来て
しきりに現地の言葉でなにかやりあっている
装束のようすから きっと
田舎からやって来た巡礼の一行で
ちょうどこの寺院に参拝するところなのだろう
出口はたしか あちらの方だったと首を回したとたん
耳もとで ふと小声で祈る声がして
旅の一行はまるで羊の群れのごとく
ちょうど反対方向 モスクの入り口へといっせいに歩き始める
はじめ二三人をよけたのはよかったが
四五人 五六人と入り口へ向かう人とかるい会釈を交わすうち
いったいこれは どんな人たちなのか気になりだし
中の様子もひと目みたくなり
ひとびとに押されるがまま 寺院の中へと入ってみた
みなが ため息を付きながら天上を見上げるので
こちらも思わず上を見上げると
たしかに 細かなタイルを円天井ぜんたいに
色とりどりに貼りめぐらせたさまは壮観で
これを全宇宙図というのか
見ればみるほどに背筋の寒くなるような
ありもしないものに出会った感動をおぼえる
しばし見とれるうちに 旅のものたちが
おのおの正座してすわり始めるので
ひとり立っているわけにもゆかず
うしろずさりながら正座すると
旅団を統率しているらしき人が
ぜんいんの座ったのを見届けると
いかにも イスラムせかい特有のいのりを声高に唱え始めるが
洋の東西を問わず いのりは厳粛なもので
その ひたすら全員で神をほめたたえる姿は
たまたまここに居合わせたものにも
そのこころのふかいところでの含意を納得させる
こちらも数年まえまで
とある神社で拝師をこころざした身
拝む姿勢は慣れたものだが
ここでは拝みひれ伏したらすぐに
いちいち立ち上がらねばならず
もう幾度目か 床にひたいを伏せるしゅんかん
とつぜん咳が出そうになって みなより少し遅れた
これはまずいと思いつつ
まえの女性の尻に目をやったとき
なんとそこがちょうど破れていて
ひたいを床につけた拍子に穴がいくぶん開いてみえた
さてもいのりの声はろうろうとひびくが
顔を上げ下げするたびに
どうしても そこが気になる
くだんの女性は女性で そのふかい信仰のあかしに
ひたすらひたいを床に擦り付けるので
しぜんとそこが開くかたちになって
誰にも見せぬ秘密が しぜんと口をあける
みながようやく感動のなかで
その余韻とともに腰を上げたとき
やはりこちらも気になるので
それとなく前の女性の顔を見ると
年の頃なら三十代なかばか
その鼻や目はヴェールに隠されて見えないが
こころからの感動いまだやまぬようすで
うるうるとふたつの目が輝いて見える
さていよいよ三々五々退場のときとなるが
出口へと出口へと寄せて出ると
これ奇妙なことに さっきまで数十人いた旅団が
いまや十数人に減っている
そんな目の錯覚にだまされまいと
怪訝そうに 二人三人と目を合わすうち
さっきのきみと目があった
よほどこちらのうろたえぶりがおかしかったのか
きみは目だけで笑うと
りゅうちょうなトルコ語で話しかけたのだ
まさか 不思議はあるもので
これをデジャ ヴュというのか
以心伝心 たしかにこう聞こえたのだ
わたしたちは たしかに十二人います
三十人にも五十人にも見えたのは
あなたのちょっとした目の錯覚で
時間軸を少しずらすと
残像も既視のなかに同時に読み込まれてしまうのです
雪の降りしきる画像をスローモーションさせて
一拍子遅れた画像をおなじ印画紙に焼き付けたようなものです
わたしたちはひと月ほど前から
神の啓示を受けてこうして旅を続けています
神はこうも言われたのです
イザーイよ イザーイ
あなたのこころが従順なら この日この時
あなたの衣のちょうど後ろを破いておくようにと
それがしるしとなって とある人物が
あなたがたの旅のなかまに加わるだろうと
そして奇しくも今日が 神の申されたその日でした
ひとりのおんなとして 誰でもどうして
そこを出したまま 神にいのりを捧げられましょう
ゆうべ遅くまで どうしてわたしをお選びになったのか
神に問うてみたのですが さいわいなるかな
それはあろうことか
しんそこわたし自身が望んだことだと言われました
おお どうしてそんなことが
どうしてあなたに言えるのでしょう
これが 神の臨まれたことだと信じていなければ
さてもいまはここを辞するとき
あなたも旅のごようすですが
どこかに宿はとってあるのでしょうかと問うので
いずれゆくあてなしの気儘な旅
別に と答えると
わたしたちは目的を終えたので
いまから故郷に帰りますが
そこは山河に取り囲まれた風光明媚なところ
是非いちどいらして下さいという
さてどうしたものかと思案するが
そのやさしい眼差しでほほえみ掛けられると
ついつい こころよくうなづいたものだ
どこをどう辿って イスタンブールの町を抜けたのか
せまい小路をつぎつぎ抜けるうち やがて
のどかな田園地帯が拓け 小麦か大麦か
いろいろと規則正しく植えられている
日の暮れるたび 鄙びた造りの宿に泊まり
次に 穀倉地帯を抜けると
前方はるかに山々が並び 近づくにしたがって
ひときわ威容をはなった山が見えるので
あれは何かと尋ねると
あれがゆうめいなアララット山だという
すなわち 神宿る山という意味らしい
昔々 方舟の故事を求めて
ユンという少女と イスムルーダという若者が
あの山に登ったが ついにもどって来なかったという
見上げるとアララットの山頂は たしかに紺碧に縁どられ
その青に見とれていると
胸にシンシンと シンシンと降りしきるものがあり
どこか懐かしさのあまり涙ぐみそうになるのだが
その懐かしさの意味がシンシンと あまりにシンシンと
ふかく胸のおくにしまい込まれてゆくので
どうにもどうにも ことのあとさきが思い出せないのだ
さて ひと月ちかい徒歩の旅を終えて
アララットの山ふところにいだかれた
彼女たちの生地の村に入ると
どの家の張り出し窓にも花が育てられていたが
数段上がった家々のおもて扉には
まるで子どもが描いたような雪の結晶の絵が描いてあった
木の皮葺き屋根に しっくい塗りの土かべ そして小さな窓
それぞれの家は山羊や綿羊を数頭ずつ育て
日々の暮らしを立てているようだったが
暮らし向きも ひとびとの立ち居振る舞いとおなじく質素だった
きみは長旅のせいか しばらく家に籠っていて
ぼくはすこし手持ぶさただったが
朝早くからきみの替わりに羊のせわをやいていると
かれらもぼくを気に入ってくれたのか
足の向くまま丘をこえると
お気に入りの草場をいくつも教えてくれたし
夕刻になると決まってゆく 秘密の水飲み場もあった
ところで 不思議なことにここの羊たちは
なにがそうさせたのか 雨上がりに出る虹のように
角の色がどれもびみょうに違っていた
その内に内に巻いてゆく角からは
耳を近づけてみると
なぜか古雅なヴァイオリンの響きがしていた
知らぬ間に時は過ぎ
とある秋も深まった十三夜のころ
夜だというのに小鳥の声がして
それはいつもよりまだいちオクターヴほど高く
なにか天国を思わせる響きを立てていた
こんな夜おそくに何ごとかと思って外に出てみると
声は 村中央のちょうどアララテボダイジュの繁みのあたりでしていて
それは案の定 万遍なく月の光に照らし出され
まるであたりいちめん 水晶の粉を撒いたような別世界で
ふと大樹の陰ををみるとイザーイ きみがいた
やはりきみもこの小鳥の声に起こされて
ここに来たのかと問うと
そうではない さっき神の声が降りて
ここに来るように言われたのだと言う
その横顔をみると 月の光りのせいか見るからに青白く映って
いつかどこかで 誰か見たことのある面影がしている
そのとき いち陣の風が高みの枝を強く揺すぶりだすと
頭上でざわざわっと葉がうごき
みるみるあたりいちめん 雪のような光りの乱舞とあいなった
どこからともなく ひとつ舞いだすと
降って湧いたように 十も百も舞っている
ひとつ 目で下降を追い始めると
まるで 時を止めたかのごとく
百も千も 架空のときを逆さに昇りはじめる
どこからともなく 千も舞い落ちてくると
すぐさま 十も百も天へ還ろうと失くした記憶を遡りはじめる
そんな時だ きみが問わず語りにこう話し始めたのは
ひとは誰も じぶんのこころを赦さなければ
神の国にもどることは出来ません
見るところあなたには
どこかこころの奥ふかくに自責の念がある
じつにはるか昔の出来事で あなたはもう忘れてしまっているらしいが
あなたは まだ年端もゆかない少女を誘ってあの山に登った
方舟の残骸を捜すという詩的な冒険心に少女はのったが
しょせんは無謀な登山だった
そこまではきみは じつに静かに話した
しかし 鼻を二三度こまかく震わせると
思いつめたように こう語りはじめた
わたしはここで yzaii と呼ばれていますが
わたしのほんとうの名は iyunn yumeminarde
あなたには どこかこころあたりがあるでしょう
あなたの国には こんな言い伝えがあるでしょうか
ひとは 三たび生まれ替わって本望を遂げると
ああそれでもいったい幾度 もうこれっきりと思いながらこの世界に
どれほどふかく繋がれてきたことでしょう
そして一拍子遅れ 二拍子遅れ 三拍子遅れの世界が
すべていま このしゅんかんの裏には映し出されているのです
そう言うが早いか 月の光りの届くのがはやいか
いましも煌々と 雪は降りしきり
ぼくにはありありと 三千世界の奥のおくまで見通すことが出来た
そうだ こんな夜だった
降りしきる雪を見上げながら ひたすら神に祈っていた
あのとき祈るよりほかに ぼくに何が出来ただろう
きみの頭蓋を二度と放すまいと抱くよりほかに
雪華 アステリスク 雪割草
ロレンス マドレイン エルサレム
月は煌々と差し 雪は過ぎし日の記憶をその結晶に宿し
惜しみなく 尽きることなく 果てしなく
永遠と見まごうほどに 夜が明けるまでぼくらを照らしつづけていた
imuruta