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​ヤン

ヤン きみと初めて出会ったのは

心地よい春風の吹くアルハンブラの河岸だったね

ぼくは 旅の疲れが出て

大きな楡の木の木陰でうたたねをしていた

きみは 右に左に川面ひくく

元気よく飛び回りながら 小さな蚊トンボを捕まえていた

あの時  隣のベンチでお爺さんが弾いてた

トレモロのせつないギター覚えているかい

小さいけど よく出来た曲だった

きみはお腹がふくれると

白いチョッキのボタンを少しゆるめるため

ぼくの肩に止まった

それから こう言ったのだ

セーヌの岸辺で 禁じられた遊びを聴いてたときも素敵だったけど

​ここアルハンブラも素敵ねって

ぼくが まだねむい目をこすりながら

きみはどこから来たのって聞くと

きみは素敵な笑顔とともに

ずっと北の方 アイルランドと答えた

笑ったとき唇の両はしに小さなえくぼがふたつ見えたが

それは どこか

姉が子守唄をうたい始めるときの口もとに似ていた

それでぼくも 初対面だったけど

ありのまま話す気になった

   *

そのころぼくは 長い旅の途中だった

ぼくの生まれは きみとは正反対の南の方で

青い草原のどこにいても 頭を上げるとキリマンジャロが見えた

ぼくが母さんのお腹にいるあいだに父さんは密猟者に殺られて 

ぼくが生まれたときはもういなかった

ぼくは 母さんと姉さんに育てられたんだ

そんな分けで 誰でもじゃないけど

ぼくははやくに自立する必要があって

こうしてはるばる 自分の足で旅に出てきた

アフリカを縦断するころはまだ良かったが

あの ジブラルタル海峡を渡るのがたいへんで

こんなにくたびれてしまった

​いったいなんど真っ青な波に呑み込まれそうになったことか

きみは こんなぼくの話にも いちいちうなずいてくれたが

ほんとうはもっと自由に飛び回っていたかったんじゃ なかったろうか

でもそれからだ どちらからともなく

ぼくらが肩を寄せ合うように旅を始めたのは

まちの広場で きみが春の歌をうたいだすと

ぼくがヴァイオリンを四声で弾いて

ぼくらはさながら 辻音楽師で稼ぎながら旅をつづけた

でも きみの憧れのアンダルシアにも行ったし

サンティアゴ巡礼の道も歩いたしね

きみの歌うアリアに どれほど多くの人が耳を傾けただろう

そして勇気づけられたことだろう

​とりわけ 聖ヤコブの広場では

   *

それは ながい旅のとある日曜日のこと

バルセロナの広い公園を散歩していた時だった

きみは いつものようにちょっと翼を休めるため

たまたま並木道のはずれに立っていた 大理石の彫像の肩に止まると

二三度首をかしげて 不思議そうにその若者の横顔を見ていた

ちょうどそのとき どこかでお昼を知らせる教会の鐘が鳴りはじめたのだが

たまたまその横顔が 誰か知っている人にでも似ていたのか

きみは急に いまにも泣き出しそうな

咽もとまで出てきたかなしみを必死でこらえはじめていた

ぼくはぼくで まだ自分のことで頭がいっぱいで

きみのお父さんのことも聞きそびれていたが

たしかその名をオスカーって言っていた

その先を聞けないままだったが

誰にでも いちばんやわらかい繭に包んで

こころの奥にしまっているものがあるはずだし

どうしてぼくに きみの繭を

こじあけることなどできただろう

ああ 旅とは 巡礼とは 人とは

こころとは なみだとは そして幸福とは

そのときのぼくにはかなしいかな 姉さんからおそわった

子守唄替りのアリアをくちずさむほか 何もできなかった

   *

それもこれも 今となっては思い出の一頁だが

そのあとのピレネー越えは応えたねえ

初めてじっかんする寒さにぼくは

ながい鼻の先まで凍りそうになったけど

きみはきみで凍えそうになると

もうこのまま死んだっていいのと 

何か 失くしたひとを追うようなようすで

心細そうになんども呟いていたが

それでもぼくの耳のなかですこし暖をとると

なんとか あの笑顔をとりもどして

ようやく こうしてオペラの国イタリアまでやって来た

そういえば ピレネー越えのあたりから

きみの自慢の燕尾服も少しくたびれてきたし

ハイな網タイツも ほころびが目立つようになり

模様がびみょうにずれるようになった

きみは何も言わなかったが

おしゃれなイタリアーノに笑われるまえに

あたらしいの新調しなくちゃね

ぼくは いつも見て見ぬふりをしてたけど

ヤンがぼくの肩に止まって

恥ずかしそうに網タイツ直してるときが好きだった

ときにきみの足を見てきみのことをまるで 

マグダレーナみたいに言うやつもいたが

そんなときは ぼくは言葉ではなにも言わないが

正面からひたいを押しあてて

瞳のおくに掛かったくもの巣を取りのぞいてやった

   *

そんな日々のあい間をみては

ぼくはここぞとばかり せっせと音楽院に通い

バッハの平均律の楽譜や ヴィヴァルディのここから正に立ち上がる

ヴァイオリン協奏曲の楽譜を読んだ

アンナ マグダレーナの音楽帳を見付けたときのよろこびって言ったらないし

ヘンデルのハープシコード組曲からサラバンドの楽譜を見つけたときも

じつにうれしくて 資料館から階段を三段ずつ飛び降りると

テヴェレ川のほとりまで一気に駆け下りて きみを捜したものだ

そんなぼくの息せき切った話をききおわると

きみはきみで さっきアパートの窓から聴こえてきた

夜の女王のアリアを思わず耳に写譜してしまったといった

さて そこでつつましく居を定めればよかったのにと思う

やはり テヴェレ川にはたくさん蚊トンボが飛んでいたし

トレヴィの泉やスペイン広場には 

きみの歌とぼくのヴァイオリンを聴いてくれるひともたくさんいたのだが

どうしても 時間は止まってはくれなかった

   *

それは とある午后のこと

何気なく 資料室の一般者用の棚を見ていたとき

ぼくはぐうぜんそこに父さんの名前を見つけた

それは じつは昔むかしの方舟の話で

たまたま父さんと同じ名前の人の話だった

でも 読み進んでゆくとじつにおもしろかったし

幾まいもいくまいも挿み込まれていたさし絵には

見たこともないめずらしい動物の絵がたくさん載っていたので

途中だったが きみにも見せてあげたいと思って

貸出し係のところで記帳すると

足早に公園へと向かった

きみも足を組むと 本を膝に載せてねっしんに読んでいたが

ノアの息子の横顔が載ってるところで指が止まった

はたして そんなことがあるのだろうか

その横顔は バルセロナできみの止まった彫像にうりふたつだった

もともと何年もこの町にいるつもりはなかったし

卒業に足る学位を取るつもりもなかったが

次にきみはドナウ河を見に

音楽の都ウィーンに行きたいと言っていたし

でもその日から はたしてぼくらは目を合わせるたびに

見たこともない山々のすがた

まだ誰も探し当てたことのない方舟の残骸にと

その興味をふくらませていった

ドナウの流れを見ながら

ウィンナーワルツを聴いてみたいと言っていたきみ

空を舞うような円舞なら誰にも負けないと言っていたのに

それはある日 思いつめたようすできみから言い出した

ねえアララット山に行ってみましょうと

​ぼくが それとなく踊り子になる夢はって聞いてみると

それは三才くらいから始めて 十何年も

毎日まいにち レッスンしてないとものにならないし

どうみても 身のかるいツバメには見えても

みにくいアヒルの仔には見えないでしょうって

こころここにあらずってふうで言った

それから もしあの本のノアの話がほんとうで

ノアが舟を降りたあと あの山のふもとで

どうぶつたちと住み始めたとしたら

きっと その末裔たちがいるはずだって

そこまで聞いたとき もう瞳のおくをのぞかなくても

さすがのぼくにもピンときた

人とは 恋とは 献身とは

面かげとは 幸福とは 別離とは 

ぼくは 脇の隠しからヴァイオリンを取り出すと

ぼくらが初めて出会ったとき 隣でお爺さんが弾いていたあの曲を

頬を伝う涙を拭いもせず こころを込めて弾いた

​そしてそれから ヤン行こうとぼくが言った

   *

それは ぼくが木陰でうたたねしてる間に見た

みじかい夢だったかもしれない

でもそれは 雪のふる銅像の足もとで

いまわのきわにきみの見た 夢だったかもしれない

隣でお爺さんが弾いていたギターの調べが

耳のおくにいつまでもこびりついて

ギターの音はまるでちいさい泉のごとく

いっときもとどまることなく あふれ続けた

                  imuruta

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