脳病院
夏山に風が立つと
さっきまで こい緑に見えていた木々の葉が
いまは いっせいに翻り
いっしゅんにして 春たけなわの若山にもどったような
そんな錯覚も覚える
さっきから ひとが見えていると信じているものは
その印象は 刻々と変化しながら
じつは 見えている外の世界が変化しているのか
見ている方の心象が変化しているのか をどうにも決めかねている
我々は何処から来たのか 我々は何者か 我々は何処に行くのか
そんな大作を描いたのは たしかゴーギャンだったが
彼もまた おなじ問いにくるしんでいたのかもしれない とふと思う
もう あそこに見える山を観察し始めて 何年経つだろう
この鉄格子さえなければ いっしゅ楽隠居にも思えるが
手慰みに水彩画を描くか 看護婦あいてに戯れ言いってるぐらいが
関の山で ほかにどんな仕事があっただろう
*
きょうも午後になってうとうとし始めた頃
コツコツとノックの音があってのち
ガシャガシャと鍵束の鳴るおとがして
診察時間でもないはずなのに看護婦すがたのきみが入って来た
部屋のすみの小机でてきぱきと薬を調合するさまは
じつに手馴れたようすで うしろ向きのまま
きょうの加減は如何ですかと尋ねるので
取り立てて自覚症状に変化はないが
ただ少々 透視が進んだようですと素直に答える
たしかに病院内の どこで誰がなにをしているかが
思いを馳せるだけで 立ちどころに見えてしまうのだ
それは 困ったことですねと言うと 看護婦は
オブラートに包んだ薬と水の入ったコップを手渡し
ひとつため息をついて 必ずちゃんと薬は呑んで下さいねとだけ言って
なぜか嬉しそうに 鼻歌をうたいながら出て行った
*
翌朝 朝の散歩のじかんに
夏草の伸び具合をかんさつしていると
雑草はあたりいちめんに見えて
実は 地縛り 犬のたらびこ 猫じゃらし
毒だみ 女日芝 姫踊り子草と
それぞれに繁殖時期にびみょうなずれがあって
それをなるべく律儀に記憶しておくことは
仕事に追われもしない院内ならではの愉しみだった
きょうもまた午後になって 鬱らうつらし始めると
コツコツとノックの音がして きのうと同じ看護婦が入って来て
それでもきのうとは少し様子が違って
院外ではもう夏ですから
きょうはひとつおビールでもどうぞと
ちょっと間を置いたので生ぬるいかもしれませんがと
コップに入ったそれを差し出してくれる
まさか こんな病室で久々の夏の風物詩が頂けるとは
よろこんでひと口くちに含むと 咽もとで泡がはじけ
ちょっと辛いが懐かしい味がした
ぼくがコップを飲み干すのをかくにんすると
きのう透視のはなしが出ましたが もしかして
たとえばわたしの看護服の下も見えるのでしょうかと聞いてくるので
たしかに見ようと思えば見えますし
でも ふだん誰もそんなものは見えないものと信じているので
たとえ見えていたとしても気づいていないだけで
ほんとうは だれにでも見えている筈だし
出来るだけ ふつうに振る舞っていますと答えると
如何にも満足そうに 鼻を数回ひくひくさせた
でも そこからだった
なにが看護婦のきぶんを害させたのか
きっと目を吊り上げると
そういう破廉恥なことを
透視だの何なのと かこつけて言っているから
こんな脳病院のお世話になることになる
まいにちちゃんと薬は呑んでいるか
治る気はあるのか
そんなこんなも世間逃れの口実だろうと
立て板にみずに まくしたてる
絵などまいにち描いているようだが
スケッチ帖のうらを返せば
まるで江戸の版木か まくら絵のごと
どうせ脳炎のいっしゅか 脳軟化症にきまっている
ほらほらここで 検分するから出しておしまいと
ひとつしかない曳き出しに駆け寄るがはやいか
スケッチ帖をバラ撒くがはやいか
背筋を伸ばして急に向き直ると
ほらほら申し開きできないだろうとはげしく詰め寄る
ぼくとしても あまりにとつぜんの事で
終始せんてをとられ続け なすすべもないが
見方によれば そう見えぬでもない
要は主観のもんだいだと言い返そうとするが
なま半可なこたえでなっとくする剣幕ではない
ほんとうに透視が効くのなら
みえるものを洗いざらい言ってみるがいいと
かんぜんとして逃げ場を塞いでから 言い寄ってくる
あげくの果てが こちらをベッドに押し倒すと
顔じゅう舐め回しにかかる
昼ひなかから こんなようすで
もしほかのひとにでも見つかでもしたら大変だと
後ずさりして逃げるうち ベッドから転げ落ち
しこたま後頭部を打ちつけた
いっしゅん視界が真っ白になり意識が遠のきかけるが
これほどの強迫観念は そのじゃれつくさまは
なにか犬とでも揉み合っているとしか表現しようがないが
やおら看護婦のかおを見ると
いまにも泣きじゃくり こんどはこちらの顔のうえに跨ると
気も狂わんばかりに素直すぎるこえをあげる
日々こんなところにいたら 患者だろうが看護婦だろうが
そこにどんな違いがあるというのか
ましてや口が裂けてもひとに言えぬ過去をもつ身だとしたら
もうここでは かんぜんに主客が転倒している
*
そのつぎの日もまた おなじくらいの時刻だった
扉のむこうで鍵束を操るおとがして その音をきくと同時に
いま自分は期待して待っているのか
あるいは逃げ出しようのない事態にちょくめんして恐れているのか
どうにもはんだんが出来なくなっていた
きみは コツコツといつも通りノックして
扉のすきまから身をすべらせて入ってくると
すこしのあいだ廊下のようすを窺い
それから きょうはあなたに呼ばれたので来ましたと言った
きのうまではじぶんの自由意思で来ていましたが
きょうは あなたの潜在意識がどうしても来てほしいと懇願するので
ことわり切れなかったと言う
こちらが怪訝そうなかおをしていると
あちこちそとの世界は透視でみることが出来るのに
あなたはじぶんの心のおくが見えないのかと言う
それまでは伏し目がちだったが
ひとみを上げてじっと こちらの目のおくをのぞき込んでくるので
そのこそばゆいような これから起きるであろう事象に触覚を張っていると
ふいに はげしい悲しみがおそってきた
それはまだ 生まれてまもない時期に両親から引き離されるような
ふたりの死にちょくめんして なすすべもなく泣きじゃくっているような
そのとき 鉄格子のそとにはいったいどんな世界が待ち受けていたのだろう
ああ 業とは 非業とは われわれはどこから来た
そしてここで対面しているわれらとは いったい何者なのか
いまじっと見つめてくる目のおくには ふかいかなしみが宿り
それは たったいま仏のひとみと対峙しているような錯覚を覚えさせた
それは とある寺の境内で落ちつづける花の数をかぞえていた時だったか
同じように なすすべもなく ときがながれていった
ああ どうにも償いようのない過去とは
ひとに つぎつぎと降りかかってくるさまざま事象とは
いずれひとには 過ぎ去った可能性のすべてを検証することなど出来ない
ただつぎつぎと いま浮かび上がってくる想念と対座しているだけだ
それはどう言えばいいのか もの言わぬ犬の子をまえにして
どうにもなぐさめの言葉がみつからないような
どうしようもない戸惑い ふかいあきらめにそれは似ていた
ああ 慈悲とは 心のきずとは きずだけが繋ぐ絆とは
ふっとわれにかえったとき
いったいいま自分に見えているのは きみのこころのなかなのか
それとも鏡に映ったじぶんのこころの影なのか
もうどうにも はんだんのしようがなくなっていた
それは ただきみがきのうのように
看護服をはだけるのを待っているようにみえて
じつはきみの言うとおり 自分の内心がそう仕向けているようにも思われた
窓のそとでは 永遠とおもえるほどながく蝉が鳴きつづけていた
そしてそれは じかんの止まったふたりの唯一の定点観測地点だった
*
とある朝 意を決して彼はカルテにこう書き込む
彼女 双極性障害アルモ パーソナル障害ナシ
幼児期ニ蒙ッタ喪失ニヨル愛失ノ思イ深ケレバ
ドノ女子モコノ病 発症スル 透視観察ヲ要ス と
imuruta