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遺伝子

ハル どうしたのよ どこでみつけたの

なんて可愛い子なの もうなまえはつけたの

だめじゃないの いちばんになまえはつけるものよ

えっ おんなの子なの 素敵じゃない

この毛なみ まるでお風呂から上がってきたばかりの

あかちゃんみたいじゃないの 生後ひと月くらいかしら

あれっ こんなところにちいさなあざがあるのね

あらあら どうしましょ

この子 おもらししちゃったわ

まあ 可愛いこと

ハナが来ると いつもにぎやかだが

きょうは 子犬のせいでいちだんと興奮している

子犬はきっと ハナのあまりの人のよさに圧倒されて

思わず失禁してしまったのだろう

あらあら おばちゃんが拭いてあげましょうねと

嬉しそうにそばにあったティッシュをいちまい取ったが

ティッシュで拭くまえに 素早くペロリと舐めたのを

わたしは見逃さなかった

子犬のなまえはもう付いている イディッシュだ

それはわたしが生まれ育った地方の古い呼び名で

今では誰もそんな言葉を話さないが

​イディッシュ語と呼ばれるものもあった

わたしは小さいころからお爺ちゃん子で

まいばん暖炉に当たりながらお爺ちゃんの膝で抱かれていたが

村のお爺ちゃん同士が話すことばは もっぱらこれだった

黒いがんじょうな手 けむくじゃらな足

ひろい肩はば お爺ちゃんは森で樵のしごとをしていたが

わたしが十二才の春 森のおくで迷子になってもどって来なかった

だからよけい いまも良くお爺ちゃんのことを思い出す

そのころ みぎてのてのひらに小さなあかいあざが出来たが

それはおとなになっても消えず いまとなっては

かけがえのない お爺ちゃんの思い出と重なっている

でも おとなになって 時にふっと思うのは 

わたしに初めての月のものが来るのを それとなく予感して

お爺ちゃんは森のおくに帰ったのかなあって

そして森はきっと お爺ちゃんを抱きながら

尊厳という糸の切れるまで わたしを見守りつづけるだろう

   *

わたしはいま ドクトゥール通りのパスツール研究所で務めている

ふだんは免疫学の研究や遺伝子の仕事に携わっているが 

気晴らしもかねて ちかくの保健所回りもする

ちか頃は 不要になったペットを保健所にもち込む人も多いし

絶滅危惧種や国際条約で保護されている動物まで

こんな町の保健所でみつかることがある

わたしの仕事は残念ながら それらを動物愛護協会に引き渡すことではなく

殺処分されるまえに その遺伝子を採取することにある

その日はなにも収穫がなくて 手ぶらで帰ろうとしていた

それは風の強い日だった ちょっと一服しようとおもって

烟草に火をつけようとしたが 風がつよくて灯らない

わたしは風をよけるために ふだんは行かない建物の裏に回ってみた

するとそこに そのケージはあった

ケージの中にはかわいい犬が三匹入っていた

フレンチブルドッグの成犬が二匹と たぶんそのこどもが一匹

三匹は 強風のなかでふるえていた

そこにちょうど保健所の作業員が通りかかり わたしに声をかけた

可愛いだろう でもあしたは殺処分さと言った

わたしがそれはないでしょって顔で その作業員を見返すと

これを飼ってた九十近い婆さんが 心臓発作で死んじゃって

誰も身寄りがないものだから いま引き取って来たばかりだと言う

知っての通り ここにはそんな動物がいっぱいでとても飼いきれない

わたしは烟草をもみ消すと 思わずもう一度ケージのなかを見た

そのとき この子犬と目が合った

わたしはこんなアパートに仮り暮らしだし とても三匹ぜんぶは飼えない

でももう 目があった以上どうしても見過ごせないのも事実だった

それは にんげんのなかにあらかじめ組み込まれた

遺伝子のなせる業としか考えられなかった

それに 先の戦争からあと たとえ犬猫であったとしても

いったいだれが ガス室なんてまた考えついたのだろう

   *

この子おかしいのよ 犬のくせに動物図鑑みるのが好きなのよ

仕事柄 その手の本はたくさんあったが

たまたま動物がたくさん描かれた表紙をみつけると

しげしげとみとれてしまって もう動こうとしないのよ

なにが そうさせるのか知らないけれど

わたしの娘になったことが分かって 

お母さんの仕事を 早く手伝おうとでも考えているのかしら

よほど わたしの話がおかしかったのか

ハナがお腹をかかえてわらっている

えっ 犬が実験動物の領域をこえて

遺伝子研究に取り組むって言うの

だから ハル わたしはあなたのことが好きなのよと言うと

わたしの胴に手を回して すばやくキスした

でも 鳩の話ってあるじゃない

ノアの舟から飛び立った鳩よ

一日目 二日目って帰って来たけど

三日目には帰って来なかったって

動物にもそれぞれ役目があって

いちいち書き切れなかったんだと思うけど

きっと犬は ノアといっしょにいて

ほかの動物たちがぜんぶ舟を降りるのを待っていて

なんてったって その動物たちの顔をぜんぶおぼえ込んで

それから 船長みたいにいちばん最後に舟を降りたのよ

ハナは またクスクスわらうと

へぇー このおちびちゃんが船長さんなんだ

ノアの方舟って いったいどんなに可愛かったんだろうって言った

もしかしてその舟って あとのひとが描いた絵じゃぜんぜんなくて

あちこちでミュウミュウ声がして はいはいミルクですよって

ノアたちが走りまわってる まるで乳児院だったんだ

わたしたちもその舟に乗って おっぱいあげたかったよねと言って笑った

   *

わたしはきっとあの舟は 

じっさいの動物をのせてたんじゃなくて

じつは 遺伝子をのせてた舟だったって思ってるんだけど

そして その舟はいまもあって

動物たちは死ぬと その遺伝子だけが回収されるのよ

こんどは ハナはまじめそうに聞いてくれたけど

それって 別次元からきた舟っていうことって聞いた

そう言えば この子のみぎの腋の下にある赤いしみ

あざかって思ってたけど よく見ると

なにか蝶にも見えるのよねっと ハナが言った

そのしゅんかん 二人の背すじをひんやりしたものが走りぬけた

時間が とつぜん糸の切れた糸車のようにカラカラと回っている

この子の両親たちって あなたが言う通りだとしたら

いまごろは 遺伝子にもどったって分けだけど

かならずそこには 恐怖のDNAが組み込まれているってすると

時間の流れが あべこべになってるけど

この子はそのDNAを 前もって先取りして生まれて来たってことになる

ああ ノアの方舟とは 動物たちのDNAとは 人間とは

そして生命とは 地球上での経験とは

ああ ひとは天国にもどるとき

そのDNAになにを刻印して 神と対面するのか

   *

イディッシュは ふたりのはなしに付き合いきれないとばかりに

洗いたてのタオルのうえでからだをまるめると 

もう おねむを決め込んでいる

ハル このはなしはちょっと置いておいて

そろそろ始めましょうと言って

ハナが やさしくわたしの耳を咬みはじめる

それは別次元への閾を 秘かにひろげる儀式に似ていた

ベッドは これからイディッシュがちいさい鼻を鳴らしてめざめるまで

快楽という名の股間を けっして閉じさせはしないだろう

                         imuruta

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