アマトリア
幾重にもならんだ丘陵の
そこここにオリーブの樹々が並び
そこを風が通るたびに まるで
音楽のように 二三本
四五本と 順次その葉を揺らして来る
風は つぎに葡萄畑でこの夏の
葡萄の出来具合を確かめると
その甘味 その丸み その酸味
次に わが庭に入って来て
老いた楡の木に再会のよろこびを伝える
そのとき 何に驚いたのか猟犬が
老いた樹にむかって吠えはじめるが
なにごともなく風は楡を過ぎ
やがて 外かべに沿って礼拝堂を迂回すると
裏手の樫の木へとその歩みをすすめる
きっと いまごろ樫の根方では今日も
年老いた洗濯女が午前中いっぱい
しぜんの湧水を使って
その仕事に取り組んでいることだろう
歌とて 歌のありやなしや
いつぞやここカルタゴは ローマの属領で
明日は町なかで久々に奴隷市が立つというので
村々の領主たちは 誰もそわそわと落ち着きがない
けだし隣の荘園主に誘われた事でもあるし
買い出しもかねて あすは出掛けようと思う
市に立てば はるか東方から集められた
香辛料や強壮薬に始まり
羊の毛織物や絨毯 はては金銀細工の食器まであって
いちいち検分すれば
いちにちくらいは あっという間に過ぎる
どれも目映りするものばかりだが
さて今年は葡萄の出来高も順調で
ふところは例年にもまして温まりそうだし
そろそろ銀の飾器も新調したいし
金の指輪もすこぶる用意周到せねばならぬ
ところでその夜 不思議な夢をみた
アマトリアという名の東方の
顔立ちをした女があらわれると
世にも聞いたことのない調べで
とうとうと 歌をうたうのだ
歌のあいだに掻き鳴らされる弦の音は
竪琴か思うほど流暢で
歌の上下する音階は
とんと聞いた覚えもないのに みょうに懐かしくもあり
ただただ 夢のまにまに揺られゆられていた
*
明けて翌朝はやく
隣の園主と馬をならべて町へくだると
なにか蛇に向けて笛を吹く男
まるで蛇のごとくからだをくねらす女
なかには 空に向けて火を吹く輩もいて
市はいつも通りにぎやかで
昼までいても飽きることがない
やがて葡萄の精に気概ゆるめる頃は
どこからともなく聞き覚えのある声がして
そろそろ競りのはじまる時刻を知らせる
三々五々と人々にまじって歩を進め
おおきな納屋を改造した薄暗い建物に入ると
もう市は始まっていて
一人またひとりと 年の頃なら
十七八の娘たちが連れて来られる
娘たちは にわか仕立ての台に載せられると
ひとりづつ ひとりづつ
それまで着ていたマントをひき剥され
素裸で 男たちの打算高い
好奇の目に晒されることになる
それから競りが始まるのだが
葡萄畑で働かせるのが
十五シェケルから二十五シェケルで
家事をさせる女が三十シェケルから
四十シェケルというのが相場だ
娘たちはいちように
その素肌を隠そうとするのだが
商人は もっと心得ていて
恥ずかしげなほどより高いシェケルが付くと
その扱いには 容赦がない
そんななかに 今日はひとり肌の色の違った
はるか東方の出自だという女がまじっていて
この女 台の中央に連れ出されると
素晴らしくかがやいた目をして
自らの裸身など 毛ほどにも眼中にないようだった
並みいる男たちを見返すそのようす
胸のはり 腰のはりの物怖じせぬさま
これはまさしく 夢の中で
東方の歌をうたっていた女ではないか
今日は奴隷は買うつもりはなかったのに
気づくと 息せき切って
競りに競りはじめていた
せめて五十六十でやめておけばよかったのに
葡萄の精も手伝って この女
ついに百数十シェケルで落としていた
*
葡萄は日に日にうるうると稔り
風はあくことなくオリーヴを揺らしていたが
今日も 庭の楡まで来ると
いともたのしげに下から上まで
舐めるように葉をめくってゆく
かわったことといえば
樫の木の下の老婆にひまをとらせ
せんじつ競り落とした女を
その使役につけたことくらいだ
湧き水はあいも変わらずとうとうと溢れていた
とある午后も 楡の木陰で休んでいると
風がうながすので風のいうまま おもむろに裏手に廻ると
たしかに東方の いまでは耳なれた歌をうたいながら
おんなが洗たくに精を出しているが
みると胸も腰もわずかな薄物をまとっているにすぎない
しかして このアマトリアおもしろく
なにも洗たくの時だけ薄物にするのでなく
家事場に立たしておいても 居間の掃除を命じても
如何に 隠すようすもなく
あっぱれ いかな頓着も見せなかった
かくて 言葉こそ通じなかったが
ああしこうし 日の過ぎるうち
たがいにこころはつつぬけとなり
目の奥に隠しごとのひとつもままならず
やがて 肌と肌さえなじみ始めていた
*
葡萄の収穫もすっかり終わったとある秋の日
庭の籐椅子に足を投げ出し
はるかオリーヴの樹々をながめていると
風に葉がまくれ上がったとたん
なにか 遠景がふっと掻き消されたような
はじめにオリーヴの葉うらが消え
つぎに幾重にもかさなった丘が消え
やがて 葡萄畑の区画がつぎつぎと消えはじめると
楡の木の梢のほうから ぼんやりとかすみはじめるので
まさかと 慌てて裏の樫の木の根方へと走った
するとおまえは たしかにいつも通り
東方の歌をうたいながら 洗たくに余念がない
しかし あのいつぞやの夢とはうらはらに
歌の意味は聞こえてくるのに
音階や そのリズムがあやふやになる
歌はこうだ すなわち
<あるものは みえるものは すべてまぼろし
樹や葉やおんなは あるかなしかのきづな
やがて時がくる 来る時に風のように消えぬのがこころ
心とこころは絶えはせぬ ただ肌のぬくもりを忘れぬように>
おお アマトリア たとえ風にこの時を消されようと
たとえわが目が盲いて おのが瞳を二度と
目に出来ぬ身となろうと 指がおぼえた肌は
目の奥にしまった 出会いの情景は
ものおじせぬ心は けっして忘れはせぬ
imuruta