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​イディッシュ

プラタナスの葉がすでに黄葉し

あたりいちめん散り敷く車道を

さっきから黒塗りのリムジンが

何度もなんども往き来するが

それは落し物を捜しあぐねて

あちこち逡巡しているにみえて

じつは夜の獲物を狙っているのだ

時に止まるとひとりのおんなと親しげに話し出すが

値段の交渉が合わないのか

またひと回り闇の向こうを流しにゆく

ここはパリ ブーローニュの森では

夜ごと繰り返される街娼を買う男たちのすがたなのだが

そこはパリ 娼婦といえども

めいめい高価な毛皮のコートを着ている

だが その下はほとんど半裸にちかく

一夜の客との恋の駆け引きによねんがない

ところで おんなたちもよく知ったもので

車が止まり運転席のサイドガラスが下がると

媚を売りながらも男たちのマナーの品定めをしている

第一に安全かどうか

第二に時間や値段が合うかどうかを推し量っているのは

じつは おんなの方だ

それは秋も深まった金曜の夜だった

外務省筋のパーティがはねると

その夜はもう何も予定がなかったので

年代物のシトローエンを駆ってブーローニュへと急いだ

そこは週末の気晴らしには持って来いの区画で

見ず知らずのおんたちを冷やかしながら

よりいっそう孤独を深めるのには 最適の場所だった

その夜は パーティのあいだに少し秋雨でも降ったのか

路面が濡れて ぬれた落ち葉を踏むと

右に左にハンドルが取られたが

街燈の下には ぽつりぽつりとおんなたちが身を寄せ合っていた

はるか向こうに見覚えのある青いコートの影が見えて

それはひと月ほどまえ ディスコに誘ったおんなに似ていた

ちょうど枯葉の吹きだまりをぬけたところで

ちょっと冷やかしてやろうと思い

アクセルを踏みだした瞬間

右手の植え込みから急におんなが飛び出してきて

思わず急ブレーキを踏んだ

すんでのところでひき殺さず済んだが

いきなり車のまえにたちはだかるとは

あぶない 気をつけろと怒鳴ったが

どうしてどうして おんなもひどい剣幕で

わたしをひき殺す気かとわめきちらす

どっちが飛び出して来たんだと言うと

このポンコツの方に決まってると言うなり

車のボンネットに乗ると 

ピュタンで何が悪い

これが欲しくてやってきたくせにと言うと

いきなり前をはだけ

悔しかったら買ってみろとタンカを切る

で ふとその顔に目をやると

いつかどこか こんなに差し迫ったところで

出会ったような気もする

売られた喧嘩に買った喧嘩で

で 幾らなんだと聞くと

おくせず百フランだと言う

こちらも腹立ちついでに乗りなと言うと

アクセルを全開にして表通りへとはしり出す

ハンドルを右に切り 左に切りし

ようやくサンジェルマンに出る頃は

おんなもおおよそ息を整えたと見えて

烟草をつけてもいいかと聞くので

いいよと返すと

ライターに照らし出された横顔はぬけるように白く

おんなもふかく息を吐くと

右手で煙を左右によけている

さっきは興奮してごめんなさい

わたしが飛び出したのよと言って

わずかに口もとにえみを浮かべると

今夜は意味深い夜になりそうねと呟いた

やがていさかいも解けて

オテル・ドゥ・プレイアドに着くころは

おんなもすっかりじぶんを取もどし

バーでアルコールをたしなみはじめると

健啖なようすで二本目の烟草に火をつける

なまえはと聞くと イディッシュと答える

チェコとポーランドの国境近くの出身らしい

イディッシュ どこかで聞いた名だとは分かるが

すこし酔いも回ってきてよく思い出せない

もういちど 鍵をもらいにフロントに立ち寄り

おんなをエスコートするかたちでエレベーターを待っていると

みるからに なかなか見事な銀狐のコートで

その下がランジェリーいちまいだと気づくものなどいない

ぼくもいつのまにかしごと柄

外交官の妻でもエスコートしている気分がして

年代もののエレベーターが ちょうど十三階で止まると

ギャルソンが先に降り めざす部屋まで案内してくれる

イディッシュ 青春時代の旅の記憶のなかに

たしかにそれは存在するのだが

いましばし なにかに遮られて思い出せない

たしか フランツ・カフカの家系がこの地の出だったと覚えているが

いずれにしても東欧は

まだ解放されたばかりで貧しい国だろうに

部屋に着いてもう少しワインを飲むと

話もそこそこにおんなは

さきにシャワーを浴びてくると言い残してコートを脱ぐと 

キャミソールいちまいの優雅な腰つきで

バスルームのドアを押した

ああ おんなとは ここで 初対面の男のまえで

はだか同然の品かたちを晒しても

恥ずかしくも無いものなのか

街の角かどのキオスクで 今朝売られていた新聞には

ゆうべ首をしめて殺されていた娼婦の猟奇事件が

一面に報じられていたというのに

このうしろ姿の奔放さは

男をかんぜんに信じているか

神を純粋無垢に信じているか以外に

どうにも考えられない

それにしても 神を信じながら

その名に賭けて 宗教的な理由で殺人を犯すものもいれば

国家の威信をかさに それを正当化するものたちまでいるというのに

おんなは じぶんを信じるがゆえに 

見ず知らずの男のまえでも裸になれるのか

いずれにしても おんなとは

男にまねの出来ないちからを蓄えたものの謂だ

と あれこれ思ううちグラスを重ねていると

抜けるような白い肌を ほんのり桜色にそめて

おんなが戻ってきた

おんなのグラスにもワインを注いで話し込むうち

ようやく肌もなじみはじめるが

なにを思ったか 今夜は酔ったので外で愛されたいという

廊下でとぼくが聞くと そうだと言う

だれかに見られたらどうするのかと聞くと

そんなことは構わないという

見たくないひとに見せたいとは思わないが

見たいひとには見せてやればいいのだ

今夜買ってくれたのはたしかにあなただが

はっきり言って 今夜の客はだれでもよかった

わたしはわたしを欲しがるひとすべてに

じぶんを惜しまず売ってあげたい

たとえ好奇の目に晒されようと

そのことで どんなに蔑まれようと 

わたしを必要とするひとになら 

だれにでも どこででもじぶんを差し出したいと

おんなのグラスが空いたので

もう一杯つぎ足しながらその横顔を見ると

くちびるの端が痙攣し あきらかに涙目になっている

なぜこんなに興奮しているのか分からなかったが

おんなは三本目の烟草に火を付けると

その感情をおし殺しながら話をつづけた

悲しいかな こころの貧しいひとにはなまえがない

だれもわたしにはなまえを明かさない

政府にあるのは 徴税のための名前だけで

愛のためのなまえはどこにもないと

だからわたしは なまえを付けてあげるの

いち夜かぎりの愛のしるしに 

わたしを買ってくれた名もない男たちの一人ひとりに 花のなまえを

それはなにか この世界のすべてに対する宣言のような

果たそうとして どうしても果たしきれなかった約束のような

それだけがゆいいつのあかしだったとでも言いたそうに そう言った

こうとまで言われたら こちらも男として引き下がれない

いざ廊下で 禁じられた遊びをはじめてみると

情けないことに注意をあちこちに配っているのは男で

おんなはわき目も振らずただひたすら

十字架を求めてのぼりつめてゆく

こちらも腰をいかにも突いてゆくが

快楽の度合いはおんなの比ではない

さすがに おんなの襞が痙攣するのを待って

こちらも果てたが こんどはおんなの腰が立たない

苦しい息を押さえながら

両手で持ち抱えて ようやく部屋へと戻るが

おんなは 呆けたようすで呈をなさない

ぼくはもういっぱいグラスを空にすると

精を洗い流しにシャワーを浴びにゆくが

もどって来ても おんなはなにか意味不明のことばを囁いている

おんなの口もとに耳を近づけて聞いてみると

もう死んでもいいようなことを いまも口ばしっている

そのほおを数かいひっぱたくと

おんなが寝返りを打ち 

その右手でまくらの端を握ろうとしたとき

腋の下にいっしゅん 蝶のいれずみがみえた

そのしゅんかんだった 急に記憶が甦った

イディッシュ ワルシャワ ゲットォ

だれもが目を背けたくなる死体のやまに向かって

ミシェル ミシェル ミッシェルとさけびながら

なりふりかまわず 駆け寄ってゆく少女のすがたが

   *

いつだったか まだ学士を目指していたこんな秋雨のふる日

ぼくは向学のためアウシュビッツを訪ねた

かの名高いガス室を見

ユダヤ人たちの寝台をみていたとき

まぼろしのように目のまえを飛ぶものがあった

それが 蝶だった

あすガス室に送られる人たちの目にも 必ず見えただろう蝶だった

蝶は 蝶はたとえ死という苦しい閾を越えなければ

魂の離反なくしては それに成れないものだったとしても

苦しい収容所暮らしからひとびとを解放する唯一の救いの象徴だっただろう

ぼくはもういちどイディッシュの顔をはたいたが

もうおんなは起きるようすもなかった

ただ 蝶が寝息とともに規則正しく羽根を上げ下げしていた

                    imuruta

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