全和音
ミラレソシミ ミラレソシミ
音叉を使わなくても 調弦はぴったりだ
不思議なことに 弟によく誉められた
姉さんには絶対音感がそなわってるから 大事にしなって
最初 いったい誰に言ってるんだろうって思ったけれど
ひと指しゆびの上から ドレミ
高たか指の上から ファソラ
つぎに名無し指の上から シド
そしてあいだの 閾みたいなしわの所を黒鍵にして数えると
ちょうど いちオクターブになるから
その方法で 作曲にいそしんでたっておそわって
思わず 舌を巻いた
*
今日は ホームパーティに毛が生えたようなものなので
選曲にもそれほど悩まなかったけれど
ひだり足をフットレストに載せるしゅんかん
サウンドボディに隠されて見えないとはいえ
いつも やはり少し恥ずかしい
おんなとして人前で足を開くことは 日常ではありえないし
それに今日は 年配男性の方が多く感じられる
演奏が始まれば 誰もいかに音にいそしみ
演奏者の股間に目をやる人なんて
まず居ないことはじゅうぶん承知しているけど
やはり 見られていることに変わりはなく
わたしは 曲のあいだじゅう幾分上気している
メヌエット ロマンス 月の光り
愛のパドドゥ アランフェス スペイン舞曲
前半のプログラムが終わって
コップの水を口に含み
ゲストの方をひと渡り見回した時だった
ふっとほほえみがこぼれ 急に胸がつまった
*
母さんの動きがそわそわしてきた
はちきれそうな大きなお腹が苦しそうになみうっている
わたしは母さんの額の汗を拭きながら
何度も なんども泣きそうになっていた
こんなことは 初めてだった
苦しくて くるしくて うしろ足が知らずしらずに
トイレをがまんしてる時みたいにステップを踏んでいる
鼻と鼻をからませて 母さんがたおれないように
ひたすら ファの音をさがしつづけた
ドやレの方に倒れそうになると ラやシの方に引っ張った
いちオクターブ上のドやシの方に倒れそうになると
レやミの方にちからを込めた
そうしているあいだにも ピークは近づいてきて
お尻のほうでおしっこがもれるような音がしはじめた
わたしが からめていた鼻をはなして
あわててうしろにまわったとき
いまにも 頭から落ちてきた弟をつかまえた
*
とくに この週末はひどかった
予定していた会場が急にキャンセルを言ってきて
あまりにも間ぢかだったので 他を捜すことも出来なかった
ぽかんと空いた休日 ふっと思いついて
デパートの特売場に出向いてみたが やはりなかった
わたしのは ほかの人よりほんの少し大きかったのだ
デパートにないとなると 専門店を回るほかなかったが
専門店はどこも高すぎて鼻がでなかった
そこでふと思いついて
プリントなら大小おかいまいなく出来るんじゃない
思わずハナ いいアイデアじゃないのって言った
さっそく店の若い男の子を掴まえて聞いてみると
奥にかまえている社長にとりついでくれた
そのしゅんかんのおどろきっていったらなかった
店のおくにすわっていたのは父さんだった
もう大粒のなみだが今にもこぼれそうになったとき
違うよと こともなげに父さんが言った
わしはアルメニアの出身で ヌスラット
アフリカじゃないと
でも あまりにも似ていたし
わたしはその場に膝をおると おいおいと泣いていた
*
こんなこと言いだして 信じてもらえないかもしれないけど
じつは やんちゃ坊主の弟を追いかけてこのまちに来たの
弟には見かけによらず ひと知れぬ野心があった
それは 人に知れる作曲家になることだった
こんなアフリカの地にいて 部族の太鼓や
口笛楽奏ばかり聞いていても やはり本格的な勉強はできない
音楽の都ウィーンに出て その名を成したいと言い出して
わたしが止めても聞かなかった
母さんは この子のしたいようにさせてやればいいって言っていたけど
そして ある日とつぜん彼のすがたが消えた
スペイン語もフランス語も イタリア語も何も知らないくせに
ほんとうに出奔するとは あきれてものが言えなかったが
母さんと二人きりになると そのさびしさに耐えきれなくなった
いまならまだ北アフリカあたりで掴まえられる
見付けたらこっぴどく叱りつけて
木で鼻をくくってでも
ひっぱって帰ってこようと思ってたけど
時は すでに遅しだった
*
気を取り直して 立ち上がろうしたとき
手を貸してくれたのが ハルだった
じぶんのハンカチでわたしのなみだをそっと拭くと
さあさあ落ち着いて
あなたにも ひとに言えない過去がありそうねと言った
それから泣きじゃっくりのおさまるのを待って
ねえ さっきから悩んでて 相談にのって欲しいんだけど
この色 わたしに似合うかしらと言って
ショーツの棚からすみれ色の色見本を取り出してきた
わたしがうんうんとうなづくと じゃこれにするからと
待っててね言って 奥のプリント室に消えた
ハルがお勘定を済ませて 店の外に出てくると
ほらっと言って スカートを捲くって見せた
いっしゅんだったが そこには鈴の模様のついた
きれいなレースのショーツが見えた
わたしは思わずみぎの頬にキスすると
とっても素敵よって言った
わたしはお礼がなにも出来なかったけど
みぎ目をつむると 来週予定していた
ホームパーティのチケットをあげた
*
アルハンブラのまちに差し掛かったときだ
なんともほほえましい噂を耳にした
どうやら 弟に若いつばめの彼女が出来たらしいのだ
わたしはなんだか じぶんのことのようにうれしくなって
ふるさとの母さんあてに手紙をかいた
それから 切手をはって投函すると
もうこれ以上 弟を追いかけるのはやめにして
これからは じぶんのために旅をつづけようと考えた
川岸のベンチにもたれて この降って湧いた自由に
わたしは人生で最大のよろこびを感じていた
そのとき 隣のベンチでギターを弾いていたお爺さんがいた
ギターの調べは甘くせつなく
ふるさとの草原をわたるゆうがたの青い風を思わせたり
まだ見ぬ パリの夕景をみせてくれたりしたが
わたしはどこにでも行ける自由を得たしゅんかん
なんと どこへも行かず
しばらく ここにいてお爺さんからギターを習おうと考えたのだ
*
フレット アポヤンド グリッサンド
アルアイレ アルペジオ ハーモニックス
後半は オリーヴの木立を縫ってから始めた
つぎにティアーズ・イン・ヘブンを
そしてマウロ・ジュリアーニの協奏曲の第三楽章を
開放弦を多用すると ボディの共鳴音が増幅されて
ちょくせつお腹や太ももに その振動が伝わってきた
わたしは首をかしげて ネックとフレットを見ていたが
ほんとうは ずっとハルをみていたかった
曲の合い間あい間に その時間はとれたはずなのに
なぜか見られることに いそしんでいるじぶんがいた
ああ おんなは好きなひとのまえに出ると
いちばんに 顔から裸になる
たとえ上着を脱ぎ ブラウスをぬぎ 下着に掛かろうと
たえず脱いでいるのは 顔だ
顔を もっともっと裸にして
もう 耐えられなくなったときに
初めて キスをせがむ
それは もうこれ以上見せるものがなくなったときだ
見られることに 勤しんだ花の時間をここに終わらせる
気がつくと もうすべての曲は終わっていた
でも アンコールがやまないので
初めて お爺さんに習ったあのトレモロの曲をさいごに選んだが
ちいさなホールは 知り合ってまもないふたりをくっつけたくて仕方なく
こんやのお客のひけるのを いまやおそしと待っていた
そしてホールは ハルがここに入ってきたしゅんかんから
ふだんにないほどの音響を せいいっぱい演出しながら
じつはもう わたしたちの質素な部屋に嫉妬していたのだ
imuruta