top of page
​バーミアン

空いていたから掛けさしてもらうよと言って

汗を拭きふき隣の席に腰をおろすと

いま アンサンブルの最後の一小節を

振り終えたばかりといった繊細な手つきで

彼はぼくに握手を求めてきた

久しぶりだね 元気だったかいと聞くと

幾度もいくども深くうなづき

皺寄った長い鼻でぼくの肩を抱き寄せると

かすれた声で ちょうど三十年ほど

北部アルメニア地方を演奏旅行して来たと彼は答えた

切れ長の細い目

幅広の耳は相変わらずだったが

弦の音が刻み込まれた皺は

今や 無数に目じりにも走り

無言のうちにも

彼の歩んできた繊細な道を物語っていた

おおバーミアン 長年振り続けたタクトの先からは

いったいどんな虹色の音楽が紡ぎ出された

その肩幅を狭めつつ音を捜す仕草は

ときおり 祈るように合わす掌は

ぼくが黙って差し出したスコアを

彼は眩しそうに見ていたが

やがて 問わず語りにしゃべり始めた

アルメニアの草原には 彫り掛けてはそのままになった

今にも草に埋もれそうなった石の象がたくさんあったが

それはそれで まるで誰かの記した

創世記の詩篇のようにもみえた

その 一つひとつに掛けられたハーモニック・チェーンを解くのは

誰にも 容易な仕事ではなかったが

でも一つ解くたびに こちら側できみが

一つまたひとつと未完の詩を完成させていると信じていたと言った

思い出さないか これは偶然じゃない

風のフォーメイションさ ぼくの戻ったのは

森の奥深くに分け入って

一人で孤独を愉しもうたって 無理な話さ

一人で 山の頂きを目指そうたって

だって しゃべっているのは いつもきみで

外が静かになればなるほど 自分の声が気になるものさ

書いていたかいと彼が聞くので

ああ とぼくは曖昧に答えた

でも彼に見せたスコアで 彼にはお見通しだった

またカノンだね 花音

でもどんな追想曲にも終わりはあるものさ

こんな年老いた象にさえ 細いもどり道があったのだから

どこからどこまで同じ世界で

ちょうど鏡のうらと表のように すれ違った時間は

おお その時だ 彼がまるでこんがらがった時間を解くかのように

軽くかるく メトロノームのようにタクトを振り始めたのは

この時 タクトの先には

どんな催眠術が仕掛けられていたのか

ぼくが話しかけようとして振り向くと

みるみる彼自身が みどりごへみどりごへとその姿を変えていた

おお アルメニアに遊んだこの幾歳月

ぼくがいたずらにタクトを振っていたとでも思うか

今日ここで きみがぼくのタクトを預かるのでなく

いったい誰に ぼくの音楽を委ねられよう

友よ この席はついに沈黙に譲ろう

そして ぼくはこうしてきみに

祈りにふれ振り続けた このタクトを預けてゆく

                imuruta

bottom of page