菩提樹
花の木 みずきに 菩提の木 錦木 うつぎに 紅山査子
ほおの木 キャラボク 杜松の木 黒文字 ねむの木 沙羅双樹
われら 花木の名を 唱名の如く唱えつつ
こころいちれつになって 市松模様の回廊を歩けば
ここは ハイアット・アジアに伝わる山奥の僧院
時に感じては 孔雀が羽根を拡げて求愛のしぐさを繰り返すが
ほかに動くものとて たったふたつの子どものような小さい影
花の木 水木に 菩提の木 錦木 空木に 紅山査子
朴の木 伽羅木 杜松の木 黒文字 合歓の木 沙羅双樹
振り向けば きみの剃髪もそろそろ様になってきて
このお経のような呪文も 痞えずつかえず唱えられるようになってきた
きみ きみもう はだしの生活にも慣れたか
橙々の僧衣もようやくからだに馴染んだとみえて
食 寡少にして墨染めの 身なり質素な われに従う
花花花花 花の果て 水水水水 水の果て
風風風風 風の果て 空空空空 空の果て
ぼくが唸れば きみも唸る きみが唸れば ぼくも唸る
さて今は ぼくらのほか誰もいない僧院で
なんという 古風な古風な輪唱か
けだしきみが目を落とす紅冊子 ぼくが空で覚える黒文字
空空空空 空の花 風風風風 風の花
水水水水 水の花 花花花花 花の花
花の木 みずきに 菩提の木
朴の木 キャラボク 杜松の木
流れる汗 したたる汗は 先達とてきみと同じ
来し方 往く方 道は違うと見えようと
ここでともに流す汗に違いはあらじ
われ 空に暗じて唱えるも
きみ 瞳をおとして唱和するも
上下の違いはあらじ
錦木 空木に 紅山査子
黒文字 合歓の木 沙羅双樹
幾晩もいくばんも寝ず
眠い目を閉じさせぬためひたすら唱える声明
花花花 花の果て
水水水 水の果て
道 道なれば きみいとしく
雲 雲なれば 空もまたうれしい
きみ きみ遊子 いまわが胸を去来するも
きみ きみ哀し まだ道を求むる
いつ いつきみに明かさん この心のうち
ああ われらが人生 何の因果でまためぐり会う
とこしなえに とこしなえに涅槃の地で願うた心と心は
いま こんな辺境の地でまたとない師弟となる心がまえか
象象象象 象が花 虎虎虎虎 虎が命
毬毬毬毬 毬が花 熊熊熊熊 熊が命
是空是空 空が花 色即色即 花が空
空空空空 空の花 花花花花 花の花
唱名は いよいよもって佳境に入り
昏睡に次ぐ昏睡 覚醒に次ぐ覚醒の果て
いつしかきみも目を閉じて 一途にいちずに
その神秘の額に 架空の文字を浮き上がらせる
花花花花 花の果て 水水水水 水の果て
風風風風 風の果て 空空空空 空の果て
空空空空 空の花 風風風風 風の花
水水水水 水の花 花花花花 花の花
ああ 外界という外界を遮断し ふたつの心をいっしんにして吐き出せば
いま 空界という空界がおのずと開かれてくる
象象象象 象が拳 虎虎虎虎 虎が涙
毬毬毬毬 毬が空 熊熊熊熊 熊が声
ああついに来た ここに来た このたとえなき花の間に
見渡せば 雲立つところに心あり 山見下ろすところに心あり
僧院の中では まだふたりいっしんに読経しているが
こころすでに ありとある花を包んで そこにあらず
ああやっと来た 約束の空ふかく咲く あの菩提樹の花の下まで
imuruta