うねび
先生は多芸だった と言うか
じつにあちこちの学校を掛け持ちする非常勤講師だった
山王愛児園では 子どもたちにカスタネットの打ち方から
三声トライアングルや 四声ドラムスの鳴らし方を指導していたが
基本 音とともに遊ぶたのしさ
音に乗って夢をはぐくむ初歩を教えていた
なににしても面倒見が良く
グーチョキパの出し方から 割り箸を振って音を先導する方法
果ては一人ひとりに ちいさなチュチュを穿かせて
リズミカルにスキップを踏む練習まで
目を細めたり パッと見開いたりしながら
じつに楽しげにその芸のありようを伝授していたが
土日の休養日に鼻歌を歌いながら
チュチュの自作に専念している様子は思うだに微笑ましいが
午後からは隣町の 竜王初等部に赴き
近頃の子どもたちは墨汁が普及したせいで
どうも墨のこころを忘れがちだと
ちゃんと四月の始業前には墨の購入を促し
墨の摺り方からはじめ 背筋の伸ばし方
指の使い方の練習は言うに及ばず
果て 中国古来の臨書に向かう姿勢まで
じつに こころを込めて教えていた
また六月のある朝は へちまの種まきから
高い脚立に昇ってのへちま棚の組み立てを教えたり
春と秋の終わりには 高学年の子どもたちに
花壇の設計の基礎を教えると
次は 自由課題にティア・ドロップ・アイの作成まで出したりして
子ども一人ひとりのこころの奥を見つめ
そのなみだの成長の記録に正面から向かい合う姿勢は
校長は言うに及ばず どの常任教師からも尊敬を集めていたが
糸で切ったかのように 右の耳朶が欠けていた
*
それは ツバメが昇降口の軒下に
今年も巣を掛け始めた頃だった
一年の時は級長だったが
二年に進級したその年は風紀委員に選出され
あちこち 環境整備の任についていて
放課後 ジョロを持ってプランターに水やりにも回ったが
そのとき ツツジの植え込みの上に
ちいさいスケッチブックを見つけた
誰か組名か名前が書いてあるかと頁を繰ってみたが
とてもとても中等生の筆になるものではないし
いっしゅんにしてピンときたが
ケシの花のスケッチや つい先ごろ中庭で咲いていたボタンのそれ
遠い町の水禽舎に遠足で出かけたとき見たオシドリの姿などが
繊細なタッチで描かれていたが
もっと繰っていくと 一目でそれと分かる女のひとの絵や
もしかしてこれはと思う 裾の乱れた絵などがじつに克明に描かれていたが
最初の一頁目に戻ったとき 妙にこころ惹かれる人魚の絵があつた
まだ子どもで ローレライを歌う年ではない
寝転んで神とお話しでもしてる風なのだが
急に背筋を寒いものが走り ぼくは手早く水やり仕事を終わらせると
職員室前の落し物机の 誰かブルマーのすきまに差し入れた
*
新学期にきみが転校してきてからまもなく 妙なうわさが立った
きみはあまり笑わない どちらかと言えば
うつむいてこつこつ勉強する方だったが
あいつはにんげんの振りをしているが じつは人魚だというのだ
なりたての風紀委員としては 責任上捨て置けず
うわさの出どころをさぐってみると 案の定ことしの級長だった
去年そいつは 酪農家のむすめを掴まえては牛くさい牛くさいと
だれかれとなく 吹聴してまわっていたが
その子は勝気で ある日あろうことか
わざとホルスタイン柄のワンピースで登校して来たところ
そいつは もう二度と牛についての見解は述べなくなってしまっていたが
きみにかぎって どうも歩き方がぎこちないというか
歩くとき すこし長袴を引きずるような
女子はみんな夏に向いてみじかいワンピースに替えてくるのに
素足を出せない なにか理由があるのか
みょうに足もとまで隠れる 裾のながいスカートを穿いていた
*
それは 大きなチャイムの音とともにクラブが終わったあと
皆が引けた体育館に忘れ物を取りに戻った時だった
用具庫の傍を通り掛かったとき なかからひそひそと声がする
それは 叱っているのではないが なにか呵責をうながすような
咎めているのではないが 相手を質さずにはおれないような
矢も楯もたまらないのに 自分をじらしているような
その扱いに手を焼き 困り果てているかに見えて
その実ながい鼻で あるはずもないものをあちこち捜しまわるような
ない耳で ちいさい胸の鼓動に耳を欹てつづけているような
ぼくが たまらずちいさい咳払いをすると
声はあらかじめ そこになかったかのように突然止み
振り返ると 西向いた体育館の入り口の方からは
きょう最後をかざる夕焼けが射していた
*
その夜寝苦しくて おかしな夢をみた
絵の具の散乱する暗い美術室で
先生が誰か生徒をスケッチしている様子だ
それは いたいけな少女あやすふうでいて
陰に回っていろいろ検分するような
身じろぎできない恰好をさせておいてから
鼻でゆっくりと 相手をたぶらかすかのような
呼び水で誘っておきながら
乾いた咽の様子を愉しんでいるのと変わりない
なだめすかしているかに見えて それでいて
表に出ないように慎重に立ち回っているとしか思えない
暗くてよく見えないが それはまた少女のほうが
あれよあれよと言う間に 裸にされながら
機知にとんだすり抜けを演じているような
おびき出された振りをしながら
あらかじめ裏をかいて焦らしているのと違わない
囮にされるのは じっさい囮を演じることなのか
どこか花にされて困っているふうで
じつは喩の生成に 囮のほうからことを仕掛けているような
鼻を明かす駆け引きに誘い込んでおきながら
それは もっとも大事な真実から目を逸らせるためだったとでもいうような
いっしゅん ふたりは共犯者じゃないのかと思えたとき
先生が こちらに気づいてか振り返ったが
その顔には 夜のように目鼻がなかった
*
事件はつぎの朝のホームルームの時間に 担任の先生から聞かされた
非常勤で来ていた美術の先生が とつぜん亡くなったというのだ
今朝はやく 昨日から水を曳き始めたのに
今朝になっても何故か 田に予定通り水位が上がっていないことに
不審に思った農家のひとが貯水池を見て回ったところ
水の曳き込み口に 無い右耳を上にした頭がつっかえていたというのだ
死体には争ったようすもなく 先生は不屈の笑顔を湛えていたというのだが
果たして前の席にすわるきみをみると ことの異常さに慄えていたが
教室はあらなくに無い耳を そこに有ったはずの目を暴かんとして
誰かもここに 散らずともありなむいのちの尊さに途方に暮れていた
imuruta