わかって下さい
きみは 来た時とおなじように忽然ときえた
消えたというより 秋の学期がはじまってもきみは来なかった
担任の先生はなにも言わず ただ家庭のつごうで転校したと言った
しばらく教室中がざわついたが 先生はただ宿題の提出をもとめた
窓の外では まだ二百十日でもないのに天上台風が吹き
時おり 誰かの閉め忘れた窓のカーテンをおおきく揺らしていた
風は花びらを載せて あの春の日
きみを追ってきたときとおなじように吹いていたが
どう言えばいいのか 風はもう違った
幾何の時間がはじまっても
もうきみが振り向いて三角定規を借りることもないし
化学の時間に フラスコの中に出現した結晶に見とれることもない
体操服に着替えて縄跳びに汗するきみを見ることもなければ
放課後の図書室でけんめいに筋を追うきみの横顔にみとれることもない
カバンから白い布包みを そっと取り出して
休み時間にトイレに急ぐうしろすがたを見送ることもない
もう放課後のバッハを聴くことも ヘンデルを聴くことも
きみの立ち襟の黒いブラウスを見ることも
花柄の長いスカートを見ることも
これからの長いながいきみの不在を ぼくはどうやって過ごせばいいのだ
*
それは 学期はじめの大掃除のおわったあと
いつものようにごみをごみすて場に持って行ったとき
級長の方から また話しかけてきた
あんなこと言うんじゃなかった 魚臭いなんて
本心じゃなかったんだ
いつも暗かったから いつまでたっても暗い顔してたから
からかって反論させようと思ったのにと
ぼくは反射的にかっとなって襟くびをもつと
力いっぱい殴りつけた
すると級長は鼻血を流しながらも 今度は逃げず
おまえの気が済むならもっと殴れと言った
みんな おまえらのうしろ姿にあこがれてたんだ
しゃべるでもなく 冗談言い合うでもなく
ただ 黙々と本読んでるおまえらを見て
みんな 陰で兄弟みたいだって言ってたんだ
前世てあるって思うかい
婆ちゃんに言ったら それは前世の兄弟か番いじゃろ言うておった
水の上でん 二羽の水鳥がおったらそれは番いじゃ
水の中でん 二尾の人魚がおったらそれは哀しい定めの恋々じゃと
何が似てるかって鏡みて見るがいい
右手上げてみて あいてが左手上げたらほんものじゃ
口々して 相手が目閉じんじゃったらほんものじゃ
自分を無うしても 相手ば立てるのが真情じゃ
ようよう考えて 相手に疵負わすくらいなら
自分から身引けるのが玉のこころじゃいうて
おまえの気持ち分かるなんて言わん
ただ あいつが指揮棒振ってやった合唱大会覚えてるだろ
去年だってあんなにばらばらだった歌が何して
たったひと月ほどの練習であんなに撚れるほどうまくなった
先生がたもしんそこ感心してたが
婆ちゃんもひとのこころ撚れるのは
幾つもいくつも儚い人生を送ったあとで無けん
凡人には出来んことじゃいうておった
人は相手のこころ読むだけでも出来んことの多かに
いちどにみなのこころ読めるのはそれは観音力じゃて
音を見たら 音の寄って来たるところに思いを馳せ
音のゆく先々にさちを送れって
人の来たとこ 行く末もおなじじゃ
じゃが なみだでさきが読めんようになったらいさぎよう身を引くことじゃて
おまえはかしこいけん
おれの言うことにゃ聞かんじゃろが
千恵婆ちゃんはひと一倍苦労しとるけん間違うたりせん
人魚ば人より堕ちたもんおおかたの世間が言うても
ふかい分けのあって来世に人魚ば選ぶもんもおるて
わざと業のふかいもん選びよるはじぶんを試すに自信のあるもんしかせん
この世でおんな選んで生まれてくるもんみなおとこより上じゃて
月々くるしい目して こそこそしものもん取り替えるのも
誰のものでもない腹いためて子ば宿しよるも
賽の河原のごと日々のまかないに明け暮れよるも
どのおとこ衆よりちいそうなって果かのいかんじぶんに寄り添うも
みなおなごならではの苦労と 分けあっての苦労と
*
今日は万葉集の十二巻だ
古文などつまらんと思う諸君もいるやもしれんが
ふかく研究すればなかなかに人のこころを詠んでおもしろい
試験に出すかもしれないしちゃんと記帳するように
週明けの授業が始まる
窓の外に目を向けると野分のあと始末に
初老の用務員さんが熊手をもって忙しげだ
先生が黒板に綺麗な字で歌を書き始める
桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰かもここに 見えて散りゆく
二人して 結びし紐を ひとりして 我は解き見 直に逢ふまでは
まかなしみ 寝れば言に出 さ寝なへば 心の緒ろに 乗りてかなしも
恋ひ恋ひて 後も逢はむと 慰もる 心しなくは 生きてあらめやも
書き写しながら もう出ないと思っていた涙が目頭に湧いてくる
当然のこと きみのいない前の席をにらむ
頭を振る
窓の外を見る
への字になりそうな口を空けて息を吸いこむ
それから引くつく腹にちからを入れて息を吐く
もう先生の声は耳に入って来ない
でも ここでペンを折ってはいけない
ぼくは思い出すかぎりの古語をかき集め 拾い出す
明日香風 いたづらに吹く いづくにか かくだにも
見れど飽かぬ ま幸くあらば またかへり見む
旅ゆく君と 知らませば さやく照りこそ
呼子鳥 象の中山 かねて知りせば うらさぶる
心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば
ぬばたまの 夜渡る月に 逢はず久しみ うべ恋ひにけり
うるはしき とををにも 妹が心に ますらをの
恋ひにてし 匂ふまで ゆめこの花を 風にな散らし
かへり見すれば 人の眉引き 月傾きぬ
春の野に すみれ摘みにと 来し我そ なびかふ見れば 君が来むため
かくばかり 恋ひつつあらずは 散らまし惜しも 死なましものを
畝傍の山に 鳴く鳥の 直の逢ひは 逢ひかつましじ
うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む
よく覚えたものだねえ これだけ
歌になる正解のはふたつみっつだが と言う声で振り向くと
さっき黒板に向かっていたはずの先生が
いつの間にかうしろに立っている
また やられた
先生はまるでにこにこしながら夢のなかでも
まるで歌のなかでもお見通しで
ふかくうなづいて また教壇に上がると
不慮の事故で失くしたがねえ 綺麗な子だった
いま外を掃いてる用務員がいるだろう
あのひとは じつは旧制中学の同級生でね
学業も五分五分だったが 放課後の築山でよく話し合ったものだよ
かれは唐詩がすきで 王維 李白 杜甫は言うに及ばず
陶淵明 白居易 韓愈 柳宗元とじつにたくさんの詩を諳んじてた
ぼくは中央の高校に進むに かれは家の事情で家業を継いだが
ところで あまり大っぴらには出来ないがねえ
きみらももう大人だ 大人同志の秘密は守れる年だ
ぼくらは仲良かったが ひとりの少女をめぐって争った
最初にかれが入れ墨を入れ それに負けじとぼくも入れた
びっくりしたがねえ
夏休み明けの築山で制服の背中越しに竜を見たときは
それで負けじとぼくも 背中に虎を入れた
それは最終学年の夏の林間学校の時だった
人並みすぐれて泳ぎのうまい子だった
忘れもしない龍子って名だった
水泳部だったし県体にも出て 賞状を取ってくるような子だったのに
林間学校の最終日の遠泳大会の日 帰って来なかった
たくさんの船が出て大人たちが捜索したが見つからなかった
運の悪いことに遠泳の最後に雷雨に逢ったんだ
急にあたりが掻き曇り はげしい雨粒が落ちてきて雷も落ちた
みんな自分のことで精いっぱいで ほかの子のことなど考えられなかった
先生だって同じだよ
それからもう 先生たちはきわめて明るく振る舞ってたが
帰ってこないものは帰ってこない
いなくなったものはいない
ポカンと空いた穴はどんなにことばで埋めようとしても埋められないんだ
誰が言い出したか 龍子は人魚になったと
いま 同じように空いた席に対して掛けることばもないが
じつに良く似てた
この春 非常勤で復職したとき思わず心臓が止まりそうになったよ
先生は輪廻なんて信じてなかったけど
あれから五十年もして ここで合うとは
ましてや ずっと独身を通してきたかれが養女にしていたとは
*
それは もう二学期も終わり近い初冬の
もういつ雪になつてもよい 寒い日だった
自転車をしまって 玄関から入ろうとして
たたきに封筒の落ちているのに気付いた
ただ宛名もぼくだったし 切手も貼ってあり
封もきちんとしてあったが
文字が まるで水から拾い上げたかのようにひどく滲んでいて
消印と差出人の記入がなかった
あわてて部屋まで駆け込むと 抽斗から鋏を出して封を切った
わかって下さい どうか
なぜ あなたのもとを去らなければならなかったのか
わかって下さい どうか
ただあなたのやさしさを日々見ていると
なんど言い出そうとしたことか
でも どうしても言い出せなかった
わたしの口からは
どうか 噂話ででもあなたが耳にしてくれたらとも思いました
でも あなたは純情すぎた
ある善意が ある善意に出会ってこの物語りは始まりました
あなたにわかるでしょうか
ひとの世は数えきれないほどの善意によって成り立っているのです
そして そこそこうまくいっていたのにその関係に魔が差したというか
あらかじめ善と善が相談しておいて
なぜ悲惨な事態など起こるのでしょう
わたしは わたしはあなたのためにだけ
こんかい女に生まれてきたかった
でも そうはならなかったのです
わたしはこの学校に転校してくるまえ
一年ほど ひとに言えないようなところにいました
そこはわたしのような年端もいかないものが行くところじゃなかったのに
わたしは 気が付くとそこに売られていたのです
どこかにもし揃えたくつが脱いであったら
たぶん揃えたひとはもうどこかに行っていないのです
どこかで脱ぎ散らかった服があったら
たぶん またどこかでおんなが泣かされているのでしょう
でも どこかに脱いだ服がきちんと揃えておいてあったら
もう着ていたひとは どこを探しても見つからないでしょう
どこかにもし髪飾りが落ちていたら
落とし主はたぶんしごとが終われば取りに戻るでしょう
でも もし髪飾りが鏡のまえにきちんと置かれていたら
その愛らしい髪飾りはだれかほかのひとのものになるでしょう
でももし どこかにあかい鼻緒のげたが置いてあったら
おんもに出たがっているだれかがいたのでしょうか
それとも履くに履けないなにか事情があったのでしょうか
どこかにもし貝殻に載せた紅が置いてあったら
それは秘めた逢瀬の日のことでしょうか
いえいえそれは 裏山に捨てられたカナリアたちの捨て台詞です
どこかにもし 海の響きのする巻貝が置いてあったら
それは故郷を思い出すよすがなのでしょうか
いえいえそれは呑めない歌を入れるうつわなのです
どこかにもし誰のものでもないうろこが落ちていたら
でもそれだけが 最初でさいごのかすがいだったのです
欲しかった とても欲しかったあなたを
ありえない日々を過ごしながら
それでもひとは希望に掛けるものです
いつか会える いつかかならず会えると
それだけを念じてぬめるからだをいとおしんでいました
はじめて会った日のことを覚えていますか
教頭先生に連れられて教室に入った日のこと
さくらが散ってさくらが散って さくらは散りながら口々に
わたしの耳もとで これが最後だこれが最後と言っていました
もし右の胸が汚れていたら 左の胸であなたを
もし この身が取り返しがつかないほど穢れているのなら
せめて咽で せめて声であなたを受け止めたかった
誰かが魚臭いと言い始めたとき
明らかにじぶんの中に芽生える殺意がありました
でも それを思いとどまらせたのはあなたへの愛です
あなたの周辺を汚したくなかった あなたの未来を
その前後に起こった耳梨先生の事件は
あれは先生が自ら招きよせた事故です
先生が欲望に負けるふりをしながら
それに負けじと自ら進んで 水の中に入って来られたのです
わたしは もしあなたと出会っていなければ
先生の欲望に寄り添ってあげることもできたでしょう
でも あなたの潔癖さにこのうえ影を差すようなことは避けたかった
わかって下さい どうか
あの日 さくらが言っていたことがほんとうになってしまいましたが
わたしは水のもの あなたはひとの子
もし わたしのことを思い出してなみだしてくれるなら
わたしはいつも いつまでも なみだのなかにいます
imuruta