香久夜姫
香久山は 畝傍雄雄しと 耳成と 相争ひき
神代より かくにあるらし いにしへも
しかにあれこそ うつせみも つまを争ふらしき
古文の先生が身もちで数ヶ月欠勤されるので
替わりに年のころなら六十代半ばの先生が自説を下げて
ぼくらの授業を担当されていた
それで香久と畝傍の由来を教わったのだが
先の長歌につぎの反歌が二首というところで
急に眠む気が差して来た
香久山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原
わたつみの 豊旗雲に 入り日さし 今宵の月夜 さやけかりこそ
と黒板に丁寧な字で反歌を書くあいだにも ますます眠む気は募り
*
起きるのよ 手を離しちゃだめよ というきみの声で目が醒めた
手を離しちゃだめよ わたしの手を
声を離しちゃだめよ わたしの声を
さやけかりこそは願望で
現実にさやけかりし道など ほとんどないのよ
今度ばかりは 月の光りにも見つかってはだめ
もう二度と 光りの下を歩くことは出来ないのよ
あいつらには こころはまるでもぬけの殻のくせに
これでもかと後生大事にしてる正義があるのよ
あいつらはこの海の中では鮫になりすましてるけど
ほんとうは誰の夢にも棲む青い羊なのよ
ただ 盗っ人には盗っ人の言い開きがあり
人殺しには人殺しの論理があり
どの話にもどの話にも 話なりのすじが通ってるってことまでは
悲しいかな 考えが及ばないのよ
あいつらは正義を楯に 警察の振りをしているけど
呵責を楯に立ち向かわねばならない悪になど 考えが回らないのよ
思い切るのよ あらぬ方へ行くの
わたしはもう一線を越えてしまったし
あるべき道をはずれてどこへでも行方を眩ませるけど
あなたは まだ違う
だから わたしの手を離しちゃだめよ
*
君たちは中央の指示もありなん この三山を
大和の三山と歴史の授業で習っただろうが
ぼくは 日向の三山だと見てる
そもそもわだつみは海の神だ
諸君も知ってのとおり 大和には海がない
何ゆえ 入り日が西の海に沈むというのだ
香久山はだな 桜島山だ 畝傍は霧島山だ
そして耳成は開聞岳だ
どの山の威容にもれっきとした格がある
しかも古事記にも ちゃんとしたそれを裏付ける記述がある
いわば大和の三山は 日向の焼き直しだ
*
字を離しちゃだめよ 物語りを
筋を離しちゃだめよ 尾ひれを
みんな水の中じゃ息が出来ないと思ってるけど
そんなことはないのよ
ほら お母さんのお腹にいた時を思い出すのよ
誰でも羊水のなかで 自分を育んできた
水のなかには酸素もあるし 水はいのちそのものなのよ
その瞬間 ふときみの声の中にいるから
青い羊に追われるんじゃないかという疑念が湧く
筋を追っているから 筋に追われているんじゃないかと
でも どんな事をしてでもきみを守りたいという使命感も何より強い
だめ ペンを離しちゃだめよ 指を
唇を離しちゃだめよ 舌を
あなたが書かないから まだ青い羊が見えないだけで
統辞法に隠れて かならずあいつらはいる
あなたも覚えているでしょう この前来た警察の人
あれは法の番人に化けた 倫理規定そのものなのよ
ああして どの町でもこころに疵のあるものを狙いうつのよ
*
あなたは夢を見ていると思っているかも知れないけど
これは現実なのよ 言葉の中では
それが証拠に ほら
もうあなたは水の中でも息をしてるし
ほらわたしの腕の中で はじめての自分を見つけ始めてる
これは同語反復に聞こえるかもしれないけど
あなたは自分を見つける旅を いま始めたばかりなのよ
今にあなたを おとなにしてあげる
夢は 夢はひとの心のなかに愛を育むわ
ひとは本の中で初めて夢に出会い
それから 愛をつたって初めて異性を知るのよ
そしてそれは生きとし生けるものに共通する夢なのよ
あなたは知らないでしょう わたしの死んでいるわたしの過去など
わたしは殺してなどいない
わたしは 山水をたどってやって来た
耳梨先生の尊厳を守ってあげただけ
ひとは ひとのこころは
本と現実と夢とのあらゆる様態なのよ
そう話す間にも きみはどんどん泳ぎつづけ
やがて あたりは漆黒の闇と変わった
ここまで来れば もう青い羊たちもついて来れないわ
もう大丈夫よ ほらあなたも水の纏いついた服を脱いで
わたしのように生まれたままの姿になればいいのよ
そうわたしが教えてあげるわ 誰でもこうして一歩おとなになるのよ
*
いちどでも花と咲いたものは
花のなかが 恥ずかしくて恥ずかしくて
二度と閉じられないと分かっていて
その散りぎわに いちずにすがる
いちどでも水に生まれたものは
水の中が 恋しくて恋しくて
何もかもかなぐり捨てても思いつめ
おんなにしか知りえない ひたむきな歓びを遂げる
いちどでも歌と歌われたものは
断言と韻律の両ばさみに磔にされたまま
まるで臨書のごとく
文字であることの恍惚を生き続けなければならない
いちどでも物語りの筋にされたものは
如何な非道をまさぐられようと
それは愛の綴じ糸が切れるまで
そこで 花たる身をさらし続けねばならない
*
そこのふたり
寝てるんじゃないだろうなという先生の声で目が醒めた
連日の水練で疲れてるだろうが
ここは図書室じゃないんだ
かってに夢の世界に入ってはいかん
いま大事なところを説明しているんだ
いわば畝傍に誘われて香久が というところで
押さえようのない激しい絶頂が込み上げてきた
imuruta