飛天
日輪は右に 日輪は左に
日輪は上に 日輪は下に
絶え間なく揺れ たえまなく動き
日輪は戸惑い 日輪はたじろぎ
日輪は差し 日輪は射抜く
漣は立っていなくても
日輪は絶え間なく水面と戯れ
時は昼ちかく
日輪はまもなく南中するだろう
何か悩みごとがあると
よく池畔の石の上にしゃがみこみ
水面をなすすべもなく見つめていた
水の下には数匹の真鯉が棲んでいたが
別だん 餌を求めて上ってくる分けでもない
水の下にひっそりと潜むとは
そこに歌はあるのだろうか 生きる喜びをうたう声は
そこに涙はあるのだろうか 大きなちからにすがろうとする思いは
いずれ水は黙したままで 音もなく揺れつづけている
どれほどそうしていただろう
それは眩しさに耐えきれず 日輪から目を離したときだった
はるか虚空 それは鯉の背ではない
錦のものが ここには棲んでいないはずなのに
水のおもてを あるいは水のうらをゆっくりと泳いでいるものに気付く
みどり濃い池水に浮かぶ
なんてあでやかなその背 なんてなまめかしいその足
おどろいて空を見上げるが
夏空は一点のくもりもなく晴れ 目がおよぐばかり
もういちど水面に目を返したが とうぜんの如くかのものは消えていた
*
それから数日してからだった
開聞先生が玄光院の長い石段を登って来たのは
それも暑い日だった 空いっぱいに蝉が鳴き
蝉は涼を求めてやまない石たちの中に入り込むと 石の奥にこだまして
だが声が その表から芯に届くまでいったいどれほど時間が掛かるのだろう
声は石の表面に降り注ぐが 表を過ぎたとたん石の堅さに押し返され
それはゼノンの矢の如く 芯までは届かないのじゃないかとも思える
しかし 蝉の声のなんと果敢なことか
それは この広い境内のどこかに眠っているはずの人魚石を捜すのに余念がない
いったい いつから言い始められたことなのだろう
古文書にもそんな記載はないと聞いているのに
それにそれを捜し当てたという報告も いっこう蝉たちからはない
ところで 石の中に水を入れるだけでも至難の技なのに
ましてやそこに人魚を棲まわせるなどと だれが考えついたことだろう
*
まあまあ お暑い中よう来てくれはった
こんな水菓子しかおまへんけどと言いながら あれからまた一年にもなる
なんかまた嬉しい話かと胸が高まるが
あれこれ時候の挨拶やら 思いついた近況やらで時間が過ぎる
あの日 あの先生のとこで泊めてもろてから
なんか内子が入れ替わってしもたような
ふだん何がなし気づくこともないのだが
気が付くと池のふちで水見てたり
若いころ流行ってた失恋のうた口ずさんでいたりする
しょうのない人やなあ と言い掛けてやめる
ふと目が合う ふとあの夜のこと思い出す
じつは今日寄せてもろたんは
観音さんに手を合わせたあと こちらに向き直ると
月心さんと見込んでお願いがあるんです言うたなり
ちょっと間があって じつはこんど仕事が入りまして
それは新興宗教のある団体からなんですが
それで今度は ほぼ等身大の飛天を一対にして彫って欲しいらしいんですが
もし月心さえ良ければ
こんど龍子さんにモデルしてもらえへんやろかと言うものだった
いっしゅん へえと返事して
すぐさま 胸にあついものが込み上げてきた
ほら取り次いでは見ますけど あんな子やし何と言うか分からしません言うて
なんかなじるような目で まじまじと先生の顔を見てしもた
飛天ちゅうたら 空舞うもんやし
こんな婆さんでは 今度はとても若い娘でないと務まらんな思いながらも
なかなか龍子には言い出せんやったが
開聞先生には 夏休みのあいだちょっとだけ言われてたし
そう先延ばしにも出来ひんし
ある日 暇見ついでに言うてみると
こちらの心配をよそに ふたつ返事だった
ほら おもしろいわ いっぺんしてみたかったんや言うなり
たかたか指でわたしのおでこ小突くと
この指の知ってること先生にも教えたろ言うて 悪魔みたいな顔しとる
その可愛い顔の 何て憎たらしいことやろ
挙句にそやけど お母ちゃんみたいにヌードやったら興奮するなと言い出す始末
*
龍子の口から 青舟くんという名前聞いたときの驚きって言ったらなかった
ここに嫁いで来てからはすぐ 龍子とも打ち解けた
学校であんなにどの先生にも反抗的で
パンツの見えそうな短い制服すがただった子が
家にもどるなり みじかい浴衣に着替えコミックを読み始めるが
ご院さんとはべつだん話もなく もちろん諍いもなかった
中学時分だったので なんや面白うない顔はしてたが
その間にも じぶんの部屋で寝ず 布団曳いてわたしの隣で寝るようになった
そこまではよかったが だんだんに布団のなかにまで入ってくるようになって
はじめはちろちろ胸さわるくらいやったのが
越してひと月もせんうちに しもの秘密まで知られてしもた
なんか非行少女やと思もてたんが 家のやんちゃ猫になってしまいよって
こっちはまだおくての処女やのに むこうがすけコマシで
ご院さんがいても 流し目送ってきたりする みょうな事なってしもてた
それがまあ わたしの助力もあって高校進学すると
あれは二年の秋頃 修学旅行帰ってきてからやったか
急に 彼氏にしたってんと言って連れて来たのが青舟くんやった
字聞いててびっくりしたのきのうの事のようや
わたしの命名にまつわる話は 龍子にはしてなかったけど
龍子は龍子で うちに養子に入れたってもええなまえやろいうて
橘 青舟 なんか漢詩の世界や言うて喜んどったが
なんとも言えん因縁感じてしもたんはたしかや
ちょっと文学青年っぽい出で立ち 何んも知らんくせに悩んでるふう
目を動かすと 視線の軌跡にブルーが流れる
少女まんがに出て来てもうなずいてしまうようやった
この子 詩人やねん 象と散歩してる話書いたり
わたし見て すみれすいせんひやしんすなんて呟いとるねん
*
今朝 汗びっしょりかいて目が醒めたんやけど
変な夢見てしもた 産院でお腹痛うてくるしんでるんやけど
なんか注射されて 意識が遠うなっていくうち
もうちょっとや もうちょっとやがんばり言う声で目が醒めると
何んか股のあいだから出て 先生がええっ言わはって
そのつぎ看護婦さんがええっ言わはって
おぎゃおぎゃあって声がするんやけど
はいどうぞ ようがんばったな言うて赤ちゃん抱かしてもろたら
その子が なんとも言えへん青い人魚やってん
あんまり 綺麗やし見とれてるんやけど
また 意識が遠うなって目が醒めたら夢やってん
*
わたしがまだ子どものころで お爺ちゃんの膝に乗って
本読んでもろてるんやけど たしか人魚の出てくる話やった
読み終わると月心 人魚てほんまに居てると思うか聞かれて
話読んでもろたすぐあとやったし そんな怖いもん居てへんて答えたけど
お爺ちゃんの友達で 旧制高校の医学部行きよったともだちがおって
お医者さんしとるんやけど ここからもっと山奥の天川村ちうところで
お産に立ち会うたとき ものすご安産やったらしいけど
うまれてきたあかちゃん見たら あろうことか人魚やったて言うておった
人魚の出た村は不幸が起こるちゅう昔からの言い伝えで
すぐ始末した言うておったが 月心にはまだ分からんよって
個体発生は系統発生を繰り返す言うて
誰でもお母ちゃんのお腹に入った時は魚のかたちしてるんや
誰でもそうや言われて へえって思たん覚えてる
*
夏の暑いさかりにも なんやいたたまれんで何回もここでこうしてた
日輪は右に 日輪は左に 日輪は揺れ 日輪は動き
日輪は戸惑い 日輪はたじろぎ 日輪は差し 日輪は射抜く
やがて焦点がぼやけ えもいわれぬ飛天が泳ぎだすと
飛天は右に表を上げ 左におもてをあげ
そのつややかな裸身を何の恥じらいもなく水のおもてに晒しだすが
水にながれる羽衣は 伸びては裏返り 縮んでは色をなし
おんな裸身のみょうを あますところなく見せつける
ときにあざとく微笑むかと思えば ときに助けを乞う少女にも見えて
おんな一連のいのちは連綿とつづき 果てることがない
いましも 真綿に包まれた赤子のごとくひとりごとを言えば
幼稚園児のお遊戯さながら まだ何ほどちさい腕を右にひだりに伸ばし
こんな羽衣などじゃまだといわんばかりに 溌剌とした足で水を蹴ると
閨に誘い込んだおとこを 今生の虜と愛しゅうもてなすありさまで
日輪は右に 日輪は左に 日輪は揺れ 日輪は動き
このいっときも ここにとどまらぬさまは
おんなとはまぼろしなのか 眩しさあふれる
おんなとは実有のみょうなのか 悔しさほとばしる
いのち幾代経て ひとりのおとこに添い遂げる
幾いのち費やして こころの真実をここにあかす
日輪は上に 日輪は下に 日輪は慄え 日輪は歓喜の声を上げ
まっすぐに眉間の真ん中を突くと
いつのまにか もうこころはここになく
おんな一生の思いここに極まり 知らずしらずうち大粒のなみだほおを流れ
日輪はいやはて おんなの生きとし生けるいのちこのなみだをおいて無しと知らす
*
どれほど そうしていただろう
龍子 いまごろどうしているかと思い出すころは
またぞろ しものほう悔しゅうなってきて
おんなとは容れもんなのか ここに匂うばかりの花あって
おんなとは悔しまぎれの方便なのか えも言われぬちから湧きだす
蝉の声 しんしんと肌に染み入るが
その肌理にぬるむと その先は夢のまた夢
ここに隠した人魚の夢は ゆめ蝉のごときに悟られぬ
*
秋も終わり近うなって そろそろ雪も近いないう頃やった
雪は天上から音もなく降り始めるが
雪は水面にふれるまぎわ いっしゅん声なき声で別れを告げるが
いったい 誰がその声を覚えているだろう
それはなみだの湧きしなと 消えしなにも似ているが
ひとは なみだがどこから湧きはじめたのか
そして どこで別れを告げたのか覚えていない
龍子が何んとはなしに 口かず少ないな思てたら
何の悪びれるようすもなく お母ちゃん
どうやら赤ちゃん出来たみたいやねん 言いだした時の驚き言うたら
慌てて えっ青舟くんの子やろなと聞き返して しもたと思うたが
ほな他に誰の子やの と切り返されて答えに困った
そのときお母ちゃんかて去年の夏 いっかい泊めてもろて来たくせに
わたしそんなことしてへん 言うて涙ぐむと
わたし たとえお腹の子が人魚やっても
ぜったい生むで言われたときは ほんとうに返す言葉がなかった
ぽろぽろ大粒の涙こぼしながら 青ちゃんつゆ疑うてないし
ぼくもお父さんに打ち明けるから 龍子も両親せっとくし言われてん
もしかして誰かほかのなんて 誰も思てない
念のために言うとくけど ふたりともA型や
*
産院ではじめて赤ん坊抱き上げたときのうろたえようは
それは人魚ではなかったが 目が真っ青だったのだ
青舟くんも あまりのことにびっくりしてたが
いくら名前が青舟でも まさか龍子もぼくも黒い目なのに言うて
でもすぐさま龍子の目を覗き込むと
ようやった龍子 ようやったなあ言うてなみだぽろぽろ流れ出てた
それから 間もなくしてだ
ご院さんが産見舞いに駆け付けたのは
ああ わし言うてなかったけど
これは 隔世遺伝やな
わしのお母ちゃん 青い目のオランダ人やってん
わしのものごころ付くか付かんころ無うなってしもたけど
この青い目は一生忘れへん
生まれはドイツて聞いてたけど
何か人に言えん事情があってアムステルダムに居たらしい
そこで親父と知り合うたて聞いてる
たしか ローレライ・フォン・ハイネて名前やったて親父が言うてた
日本に嫁に来たとき 早う日本人になりたい言うて
戸籍上の名前は日本人になったるけど
おまえが 気に入って毎朝使うてる金の櫛あるやろ
あれがおまえのお婆ちゃんの形見や
こんな歌おまえ学校で習わへんかったか と言うと
細い声で 歌いはじめた
♪ なじかは知らねど心侘びて 昔のつたえはそぞろ身にしむ
さびしく暮れゆくラインのながれ いり日に山々あかく映ゆる
うるわし乙女の巌に立ちて こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の くすしきちからに魂もまよう
こぎゆく舟びと歌に憧れ 岩根もみやらず仰げばやがて
波間に沈むるひとも舟も くすしきまがうた歌うローレライ
imuruta