人形
今日もヘンデルのサラバンドが流れてる
子どもを迎えにいく時間になると
いつも奥の部屋でうねび先生が弾いてはる
それはたしか 冒頭のクレジットが流れてた時にも鳴ってた思うけど
それは何て言うか いつ聴いても
もう とおに終わっているのに
いまにも映画の最終シーンが始まるような
それは おんなが声を出して泣いていたら
その語尾がかならず濁ってしまうような
あれは 小学校の音楽の時間
たしかハンマーがピアノ線を叩くところに押しピン差しとくと
ピアノでもまるでチェンバロみたいな音が出るって教わったけど その音や
なんやちょっと賑やかで それでも淋しい
先生にさよなら言う曲にぴったりやと思うけど
あの先生には声がない
子どもらとはいつも指で話す
子どもらもようしたもんで
あの先生のお陰でみなしぜんに手話覚えてしもた
ふと先生と目が合うて 頬にえみが浮かぶけど
もしあの先生が泣いても けっして
わたしらと違うて濁ってしまうような声は出さはらへんやろと思う
きっと声に出ない声で泣かはるんや
そんな気がする まるで人形さんみたいな先生やった
*
きみは保育園から帰ってくると
今日もつましい食事を用意してくれる
きょう園であったこと
子どもたちのようすを話してくれるさまは
まるでここに ぼくらの子どもがいるかのようなのだが
その身振り手振りの合い間に
指の関節に玉が入っているような
爪のうらがわに あおい水が残っているような
それは賑やかでいて どこかすこし淋しい
六畳一間に二畳ほどの台所がついているが
テレビもないしラジオもない 洗濯機もないしステレオもない
あるのはわずかばかりのぼくの本と タイプライター
あるのはきみの編み棒と 音のでない練習用鍵盤
あるのは年代物のストーブと薬缶
きみは食事の後片づけが終わると
今夜もきっと眠くなるまでセーターを編む
だが保育園の子どもたちに着せるにしては セーターは小さい
まるで人形か赤ん坊かに着せるサイズなのだが
幾枚もいくまいもきみは編む
いったい何枚編むつもりなのって聞いても きみは笑って答えない
だって何人ぶんいるのか分からないのにと言う
*
そやけど龍子 あの先生いっつも黒い服着たはるなあ
春から夏にかけては黒いブラウスやし 秋から冬は黒いセーターやし
もしかして まさかと思うけど他に服持ったはらへんのやろか
あんたあの先生とけっこう仲ええし いっかい家呼んで
あんたのぎょうさんある服 もろてもろたらどうや
ちょっと痩せたはるけど年かっこうはおんなじやろし
まあ パンツの見えそうな短いスカートやらは似合わんやろけど
あの先生のようすからして独身やろし
龍子もお母ちゃんになって 着いひん服いっぱいやろ
服に思い出あっても 服は
思い出してもらうよりいま着てもらう方が嬉しい言うてるわ
服はそれ着ていっしょに過ごした楽しい思い出と
あれあれ脱いでしもたんいうて 横目で裸がしよることみた思い出と
それはそれで ぎょうさんおんなのことは知ってるやろけど
何がなんちゅうて それはおんなの服や
いまにも抱きかかってくるおとこのひとに
そのひとときに胸はずませるもんや
ましてやあんたの服やったら おとこのひと誘うの上手そうやし
きっとあの先生も あんたみたいによい縁に恵まれはるで
*
仕事帰りに百万遍の交差点でバス待ってると
あれっ 花がワツシを連れて帰ってくる
どうしたん こんな時間にって聞くと
きょうは録音の器械が調子悪うて
仕事終わるの遅なってしもたんやって言う
きょうはハリオスの大聖堂の録音の予定やったのに流れてしもてん
背中には花の トレードマークのギターケースが背負われてる
なんや連絡くれたら わたしが帰りにワツシ連れて帰ったのに
わたしは月曜から金曜まで ここ百万遍のパスツール研究所に勤めてる
そのせいで近くの保育園にワツシを入れたが
帰りは時間が早いので たいがい花が迎えに来る
きょう帰りに靴履かしてるとき
毬藻ちゃんのお母さんといっしょになって
ワツシと毬藻なか良しやし
いっぺん遊びに来てて誘うてくれはったんや
何んでも鷹が峰の奥のほうの
石段の上にある玄光院いうお寺さんらしいけど
こんどの日曜は わたしも演奏会ないし
春 いっしょに行ってみいひんて花が言う
うん行こ行こと答えて あれっわたしそのお寺
たしか大学の頃 行ったことあるの思い出した
あそこ知る人ぞ知る 人魚石でゆうめいなところや
なんとなく夏でも涼しい別世界の雰囲気のするところで
寺のはずれに池があって 人魚石いうからには
たぶん池のちかくやろうと思っていろいろ探して見たけど
やっぱりいちげんさんには そうそう見つかるもんやない
そうこうしてるうちお寺の住職さんの奥さんがいやはって聞いてみると
なんともやさしい顔になって 青い人魚ならぬ青い鳥の話してくれはった
見つけよ見つけよ思て 外ばっかり見てても見つからん
きっとみつからんものは じぶんのなかにあるんちゃうやろかて言われて
さすがお寺の大黒さんやなあて感心したの思い出した
*
それは薄いあおい花びらだった
練習用鍵盤のほこりが気になって
そこに乗っていたきみの聖書を本箱に直そうしたときだった
ふと青い影が見えて
何気なくそれの挿まれた頁を開いてみると
それは春に摘んだクロッカスだろうか 小指ほどの押し花だった
見るともなく開いた第二章から読んでみると
東方の三博士とヘロデ王について書かれてあったが
預言者エレミアという件りで はたと止まった
「叫び泣く大いなる悲しみの声が ラマで聞こえた
ラケルはその子らのために嘆いた
子らがもはやいないので
慰められることさえ願わなかった」
どう言えばいいのか 急にきみが弾くサラバンドが鳴り出した
それは曲が進むにつれてラケルの嘆きにかわり
それは進めば進むほどに 葬送行進曲へと変化していった
ヘロデはたかだか自分の心の恐れのために
どれほど残酷なことをしたのか
何も知らずイエスの替わりにとつぜん殺されていった
二歳以下の男の子たちは
人は生まれながらに残酷なのだろうか
ことさら聖書に表れる記述の数々は
けっして心のよわいものは開かぬがいいと教える
怒りは咄嗟にみどりごにまで走り 激しく腕が慄えた
主の使いともあろうものが なぜヨハネにだけ告げ
ひとしくおなじいおさなごたちをみごろしにしたのか
なにゆえ弱いこころにまで いっしゅんにせよこういう殺気を覚えさせる
しばらく呆然と部屋を見回して
そこできちんと折りたたまれたちいさいセーターに目が止まる
ああ人とは 弱いこころだけが償うこころのあかしとは
あれから二千年も経って この地でひとりの娘がその疵を癒そうとは
きみは どうやってその子らにこのセーターを着せてやるつもりなのだ
どうやってその声なき声をとどけるというのか
もしかしてと思う まさかよく夢にうなされて夜中に目を覚ましているが
きみは夢の通路を通って 虐殺された子どもたちに会いに行っているのか
主がいるのなら 主の自発的な仕事だろうにとも思う
いずれにしてもその出生にあらかじめ多くの犠の子羊をもつとは
如何に苛酷な人生のしゅっぱつかと思う
*
闇のなかで荒い息づかいがする
それは苦しみに身をよじっているかのようで
人に言えないこころのなやみを
ひと息ごとにひとつひとつ解いてゆくやにも聞こえる
息とは 息が現わすものとは
それはどこかふさぐ胸を 息にのせて吐きだしながら
それでも 胸にあまる愛を
ここに取り込まずにはひとときも生きられないような
それは切羽詰まっているのか
それとも陶酔をまえにおののいているのか いずれ決めかねるが
じぶんひとりの難儀を そのわだかまりにうめきながらも
ここであからさまにしなければ その先がのぞめぬとでも言うような
もがきつつ身をもみ 身を焦がしつつあぐねてきたものを
ここにありとあらゆる手をつかって解放してゆくにも思える
息はあぐみ 息はあえぎ 息はもがき
息は身をもみ 息は身もだえ 息は身をよじる
息は声になりそうで 声にはならない
息はもうすんでのところで ことばになりそうでことばにならない
ずっと捜してきた ずっとあなたを
ずっと訪ねてきた ずっとあなたを
あなたはもう何処へも行かない どこへも行かせない
よしんばもし 声のなかに閉じ込められないとしても
この息で息のなかに この息でこの胸のなかに包みこむ
いままであぐねつづけてきたものを ここにうちあけ
いままであましつづけてきたものを ここにありのままさらせば
もう隠しだてはない 身にひそむ嘘はない
表ざたにされて困るようなことはもう何もない
ずっとここにいて ずっとこのなかに
わたしももうどこにも行かない 手紙をおいて
わたしはもう闇のなかでも あなたの目のなかにいる
わたしたちのものがたりは そこでここで永遠になる
*
お婆ちゃんお婆ちゃん ワツシくん来てくれはったで
毬藻ちゃん きょうは花さんも春さんもいっしょや うれしいなあ
さあさあ上がって 石段ぎょうさんあって息切れたんちゃうか
ほらほらちいさいお口から 白い息出てるわ
冬になると息白うなんの何でやろね
ワツシくんのかわいい息 おばちゃん吸うたろ
おばちゃんワツシくんの息 好きやねん
ほらほらワツシくんも おばちゃんの息吸うてみて
目と目が合う 目と目が目の奥で笑いあう
ワツシがまだちいさい手で しゃがんだ龍子のあたまに抱きつく
笑みがこぼれる 息がひとつになる いのちがもつれ合う
あれあれ 春さん花さんごめんな
こんなとこでわたし何してんのやろ
さあさあ上がって きょうはゆっくりしていって
あれあれ 花さん重たかったやろに
きょうもギターもって来てくれはったん
あとで聴かしてもらお
わたしちいさい頃からアルハンブラの思い出好きやってん
それから ローレライも聴かして欲しいなあ
このごろお爺ちゃんよう歌てくれはるけど
やっぱりちゃんとした音で聴きたいもんなあ
*
わたしはもう 歌のなかに匿れなくていい
わたしはもう 声のなかに隠れなくていい
わたしの喩は 鱗の多いスカートのように脱がされ
わたしはわたしをなぞらえてきた下着を あなたの目の前でほどく
わたしは息の中にじぶんを置き 息のなかにあなたを包み
息のなかで 遠かった念願を果たす
あなたももう酷寒の二月の狐に化ける必要はない
あなたももう酷暑の桂の木に化けなくていい
あなたは声を上げていい そのほうがあなたに似合う
あなたは息を上げていい もう喩に頼らなくていいのだから
あなたもわたしを裸にしたように わたしがあなたを裸にしてあげる
あらゆる来歴から自由になるのは いま
ありてある喩えを反故にし 満願を手にするのはいま
もうやさしくしないでいい おとこのままで
もうためらわなくていい おんなのように
あったものはあったもの あったことはあったこと
もう組み敷いていいの いたわらなくて
もうちからずくでいいの ねぎらわなくて
わたしがわたしのなかでしてきたことは
あなたがあなたのなかでしてきたことと何も違わない
これからすることも わたしはなにも恥ずかしくはない
恥ずかしがって書けないでいるのはあなたのほう
わたしはもう喩も脱いで 来歴も捨ててあなたの自由そのものになった
さあ進むのよ 自由が何なのか知るときはいま
わたしはもういつだっていい あなたが希めばいつでも応える
これが自由よ わたしの自由 わたしたちの自由
*
それは こんな声で始まった
あぁしんど いつまで現し世との石段行き来できるんやろ
ご院さんが戻って来たのだ
おうおう今日は賑やかなこって
そやそや毬藻ちゃんのボーヤフレンド来てくれはる言うとったなあ
あれあれどっちが春さんで どっちが花さんや
ちょっとたいくつした毬藻ちゃんとワツシは
お婆ちゃんが表に連れ出していない
ご院さんが坐る ご院さんのなかに坐る
尻が坐る 背筋が伸びる 顔が坐る 目が坐る
それからふいに 花と目が合う
そのときだった花の目が開く 花の顔が開く 花の耳が開く
そしてご院さんと言い掛けて止まる
わたしが花ですと言い掛けて止まる
今日はどうもと言い掛けて止まる
おじゃましてますと言い掛けて止まる
それは瞳孔が開ききった瞬間だった
あの日あの夜の光景がありありと目に浮かぶ
それはじつに名指し難い夜だった
理由はどうあれ 犠の子羊になるとは
悪を手中に呼び寄せるとは
自分を虜にしてまで手に入れたものは何だったのか
激しい痛みのなかでわたしが感じたものは
ひとはいったい何を愛と呼び 何を愛とするのか
それはたしかに母を救わんとする企てだった
おびき寄せるとは 囮になるとは
何がしか悪に加担することなのか
赦すということは あのときいのちを掛けてまで試そうとした自分とは
あろうことか ご院さんはあまりに王維に似ていた
もちろんご院さんには角がない 年もずいぶん行っている
からだ付きも王維とは比べものにならないほど貧弱だ
だが立ち居振る舞い 一挙一頭足
王維がもし生きて長らえば かくありなんと言うものだった
事が収まるのを待って 暁闇のなかから母さんが現れたときは
その鼻にすがりつくようにして泣いた
そのあと母さんは春に 幾つか重要なことを教えていた
それからは わたしを抱きかかえるようにして
夢の道をひたすら故郷へと わたしを連れ帰った
その後わたしがワツシを生んでのち
春のところに戻ると言い出しても止めはしなかったが
たぶん母さんにとっても王維は大切な契機だったに違いない
もし目の前にいるのが ほんとうの王維だったとしたら
この先わたしは何を選び どの道を進むのか途方に暮れるところだった
*
それはお婆ちゃんが 毬藻とワツシくん連れて境内探検に出掛けて
小一時間も経った頃だったろうか
今にも丸い目をなおさら丸うして帰ってくるなり
ご院さんえらいこっちゃ ワツシくんこんなん見つけはってん
それは直径十五センチあまりの青い玉石だった
それがな毬藻がどっか行きよって
この子ときどき平気でお墓の方行って遊びよるし
また一人で勝手にゆくえくらましたな思うて
池のところでワツシくんちょっと待っといてや言うて 待っといてもろたんよ
それで毬藻の手引いて帰ってきたら ワツシくんの足もとにこれがあってん
これどうしたんて聞いたら お池からシャボン玉みたいに上がって来たて
そやけどこんな重たいもん 空に浮かびますやろか
見かけの割に軽い言うたら軽いですけど
もしかしたらこれ 言い伝えの人魚石違いますやろか
芯まで石やったらもっと重たいはずやし
わたし中に 何か水が入ってるような気がしますねん
この青い色なんや自然に見えてますけど 見たことない色でっしゃろ
へえワツシくんえらいもん見つけたなあと 春と花が顔を近づける
当のワツシくんはというと ちょっと小鼻ふくらませて自慢気や
これ大学で石扱うたはるとこで鑑定してもろたらどうやろいうと
それまで黙ってたご院さんが真顔になると
あかん これは寺宝や
わしらがあれこれして もし割ってでもしたらえらいこっちゃ
これはこれは言いながら しばらく考え込んでいたが
これちょうど観音さんの左手に載るほどの大きさや
右手はほっぺたのところで印を結んだはるけど
左手は何も持たんまま 上向きに開いててくれはるし
そやけど今日 なんの因果でこの日
池から上がってきたんやろ
それも じぶんから
何か ワツシくんが召喚したんやろか
それともどこかで 人魚がじぶんの深い業ほどいたのかもしれん言うて
ご院さん あくなくこよなくいつまでも 人魚石にみとれたはった
imuruta