top of page
​天女

中空に月ひとつ掛かり 見渡すかぎり雲ひとつなく

今夜は空ぜんたい じつに深閑として

あまりの明るさに 星々もその影をひそめている

月は何故いつもその表しか見せない

なぜこうも正確にその満ち欠けを繰り返す

今宵その全円に金をまぶしたさまは まるで竜の目だが

それならもう片方はどこに消えたのか

見下ろせば 漆黒の闇のなかに

碧くエメラルドの如く輝く全円の地球

この球面に何十億ものにんげんが寄り集まって棲んでいると

どうしてにわかに信じられよう

そしてまた百億もの動物が 千兆もの植物が

どうしてこんな円のなかに これほど静かに暮らしておれよう

耳を澄ましても聞こえるのは 宇宙風の音ばかり

月の見下ろす白砂の松原には きっと

だれ訪れることもない無音の景色があり

そこには毎年 夏になると天女が舞い降りてくるという

そして天女はかならず松ヶ枝に羽衣を掛けると

その身ひとつで 水に入りゆあみするのだが

こういう伝説が美保に限らず 各地に残るのは

そういう夜に 必定あてもなく海辺をさすらっていた男がいたのであって

おとこは なにゆえ深夜の松原をさまよっていたのか

幾枚もいくまいも デッサンを取りながら

大黒さんに聞くと 即座にそら月に水が無いからでしょうと笑っていたが

こちらも その単刀直入な答えに笑って返すが

男のこたえにはなっていない

   *

 

去年 ご本尊さんの開眼法要のとき来てもろたお客さんの中に

えろうあの観音さん気に入ってくれた奇特なひとがおって

この月読の命のような顔立ち それにこの体付き

ほんまに男衆と女衆が合わさって なお品が漂うてるゆうて

ほら今にも触り出さん勢いで 手離しにべた誉めや

そのひとが実業の方では有名な人で

こないだ知恩院さんで寄合いあったときに またぱったり出よたんよ

ちょっと影呼ばれて話聞くと 

なんでも夜な夜なうちの観音さんが夢枕に立つ言うて

それで できたら仏師さん紹介して欲し頼まれて

ちょっと無碍にも断れんし そしたらほらとんとん拍子で

おまはんさえうんと言うてくれたら 三方よしなんやがのう

開聞さんも 出来たばっかしのええ工房持ったはるさかい

今度はちゃんと それ相応のお代も出すよって

是非もう一回モデル頼みたい言うたはるねん

値の話にはわしはいっさい口挿まんかったけど

開聞さんも あれはあれで吹っかけよったんちゃうやろか

たんとモデル料はずんでもらい

あれからオルヤンタル・ダンス習いに行てからだ鍛えるようになって

どや引き締まった股張のお腹 先生に見せたったら

もうそんなん 返事聞くまでもない言いかけて

あっ蚊や言うてご院さんのおでこ張ったったけど

 

まあいややなあ ご院さん担いだはるやろ

また何ぞたくらんだはるんちゃいますか

去年うちの観音はん出来上がる頃

あんな剣幕で怒ったはったん忘れおいやすか

なんぼなんでもお釈迦さんやあらへん

そんな手には乗らしまへんで言うて

お茶入れ替える振りして庫裡に立ったけど

この垂れはじめた胸の高鳴り言うたら

いっぺんに 天女か少女に戻ってしもた

   *

へえぇ 月心さん言わはるんですか

びっくりするほど綺麗なお名前ですねえ 橘 月心

ちょっと名の通った書家に頼んで 屏風にして残したいような名ですねえ

良寛和尚さんの晩年に世話しはった方が恵心尼さんやったと覚えてますけど

それに勝るとも劣らん名前ですねえ

やっぱりお寺さんの出で 良縁でここに嫁がはったんですか

ほんなん字くらいでしたら 頼まれんでも書かしとうくれやすと言い掛けて

ふと蔵にある 平安時代の屏風絵巻を思い出した

空に五雲たなびき いましも家のあるじが簾を捲き上げると

庭にはようよう 芯まで解けるかのように牡丹が咲き揃い 

その時だった 開聞言うたら一世を風靡した陰陽師の名

いったい何を開き そこになにを聞くというのか

月を開くとは 月を聞くとは 花を開くとは 空けた花のそこに見えるものは

とつぜん夜渡る鳥が啼いて われに返る

 

いちよう今回は正式なモデルになってもらう言うことで

簡単な契約書に署名をもらった時だった

はあ生まれは 吉野の月遭寺ちゅう寺の出ですけど

男の子やったら青心 女の子やったら月舟と決めてたそうです

それが生まれてみたらこの通り 先生も知ったはるように

ちょっと変わったなりで 月心にしたそうです

でも横に並べて書くとなんか恥ずかしいて字に似てて

ほんまに名は人を表す思います

 

ほんでも玄琢から三条までバスで出て京津線で滋賀里まで言うたら

なんやちょっとしたピクニック気分で モデルになりに行く日は

娘もこのからだおもちゃにしよって また一年ぶりのワックスや

電車に乗ってるあいだじゅう夏で薄着やし しもの方こそばゆて

立ったもん悟られんかとひやひやしてたが

服取ったらそうはいかん こんどは人が名を現わすていで

先生も知ってるくせに なんや尾てい骨の辺こそばゆいまま生殺しで

手で隠した顔を見られ 顔で隠した目を見られ

まつ毛で隠した目の奥まで裸にされると

こんどこそ日頃鍛えてるダンスで誘たろなんて 

純粋極まりない 不埒なもんがまた熱る

   *

 

はあ名前ついでに白状しますと じつは 

大谷はんで曽我先生やら暁烏先生の薫陶に接したこともある

わたし月心尼ちゅうちゃんとした名前ももろてますけど

大学出て修行したあと いっとき中学の先生してましてん

じつはうちの娘 その時の教え子でして中学時分

えらいグレてて 手焼かしよったんですわ

あんまり非道いんで いまのご院さんと教育相談重ねるうち

ご院さん早うに奥さん病気で失くしたはって

片親で育てはったんがその原因やろか言うことになって

なんや胸苦しうなって 少年院入れられる直前に

なんやかやで わたしが院に後妻に入れてもろたんどす

スケッチの合い間にこっちは口の多いほうで

ついつい 要らん事しゃべってしまうが

ペンが走り始めるとやはりそこは芸術家

目つきが厳しくなる 取りつくしまがなくなる

しぜんと自分ひとりの世界に入る

胸は垂れ始めてはいるが ひとよりは嵩が無いせいで

それほど目立つほどではないし 娘に冷やかされながらも

去年の秋から近所でベリーダンス習い始めたおかげで

下腹部も たるみはずいぶん取れた

あとは先生の趣向次第だが 面と向かって聞ける分けはない

もともとはおんなだが やはりどこか男っぽさもあって

このからだが ご院さんや先生 それから今度の施主さんの意向なのだろうが

若い頃はなにぶん第二次性徴期は 人には言えぬ辛さがあった

   *

 

点描を打つ ひたすら点描を打つ 

打ちながら肌理をなぞる ひたすら肌理をなぞる

陰影だけで肌を露出させる 陰影だけで光を 陰影だけで影を

見えているのは線ではない それは一糸纏わぬ肌だ

線は一切使わない 黙ってひたすら肌に寄り添う

線で現わせるやつらには 線でスケッチさせればいい

だが線で何が見つけられるというのだ

肌には線がない あるのは色艶と陰影だけだ

ひたすら点描を打ちながら このおんなを裸にする

ひたすら裸にしながら もっと裸にする

如来や薬師は男に見えて じつは男ではない

弥勒や観音はおんなに見えて じつはおんなではない

いわば両性具有なのだが 裸にしたいのはおんなに見えて

じつはほとけだ 仏は線では現わせない

ほとけは 数十億居る衆生の衆合体だ

点を打つ 点描を打つ ほとけを打つ

おんなを打つ 肌理を打つ 殺生なようだがその裸を打つ

打って打って もうこれ以上打てないところでおんなを放すが

そこにありありと ほとけが見えて来なければとうぜん反故になる

もう幾枚スケッチしただろう 月心さんには悪いが

月心さんほどほとけに近いからだを見たことがない

欲しい あわよくばこのからだが欲しい

いまありありと見えているこのからだが

だが不思議とそうはさせじとするちからが働く

いまここに 見えている方の目に 

そっと 見えていない方の目が重なっているのが感じられる

月心という名が 恥という字に似ているなら

月という字は なんと目という字に似ているだろう

月に宿る目とは そして目に宿る心とは

 

だがここで 月心さんに欲情を募らせながら

募るとは 月心さんが手を上げかねているこちらを募っているのか

こちらの募る思いが 月心さんにひたすら呼びかけているのか

いずれ決めかねている いずれ決めかねながらも

無い方の目からしたたり落ちる涙をどうにも忘れられないのも実情だ

見るとは 目が刻々と追うおんなの似姿は

あらかじめ無い方の目に致す この恥の感覚は

竜とは両目そろったものの謂いなのか

それとも片目失くしてのたうち廻るものの謂いなのか

 

そのとき月心さんの目から 大粒の涙がしたたり始める

もうそんな目で見んよって下さい

先生に見られていると だんだんに自分の体が

ここにありながら 消えてゆくのが分かる

と言うか 消えて無い誰かがここに入ってきてはる

月がひとつきりないのは きっと

そこからおんなたちが夜ごと降りてくるため

無い方の月からは たとえここに降りてきても

この地の男とは添い遂げられない宿命なのよ

ここでこうしてモデルしてると よう分かる

先生の目は肌を撫でる振りをして 肌理を裸にしながら

無い方の月から降りてくる誰かおんなを捜してはる

先生に見られていると さいしょは恥ずかしいばっかりやけど

だんだん生ま身のからだが疼いてきて

しんぼうたまらんよう疼いてくるが それはよう言えへんけど

誰でもじぶんのなかに中学生くらいの子ども棲まわしてる

わたしのなかでもときどきその子が泣く

その子はいくつになっても大きいならん

その子はその子で大人に成りかけのじぶん持て余してる

成りかけやから 成りよらん

成りかけやから けんめいに成らんようにしてる

わたしらも人と違うて 生まれつきふたなりやったさかい

その時分は よういじめられた

いま年も年やし 恥ずかしいてもどうどうと

その恥ずかしさ見せられるようになったけど

その子はいつまで経っても おどおどしてる

おどおどしながら どこにも行くとこ無うてわたしのなかにおる

そやけど先生に見られてるとき降りてくる子は

なんかおどおどが度を越えて 他界のもののように思える

きっと月の真後ろにある もうひとつの月から

先生に見られとうて降りて来るんや思う

出来てまもない 滋賀里の工房は

後ろに聳える中国の山水画のごとき山並みを見もせず

かと言って まえに見下ろす琵琶湖の波打ち際にも目をくれず

この秘事を誰にもじゃまさせじと 静かにブラインドを閉じたまま

この能動と受動のあいだで止まってしまった時間へと

限りなく 絶え間なく空調の風を送りつづけていた

   *

 

おそらく開聞は今夜も 湖岸の松林へと降りてゆくだろう

夜のあいだだけ打ち寄せる波は 夜のあいだだけ騒ぐ松ヶ枝は

もし その後ろをついて歩く影があるとすれば

それは月心に違いないが その影は砂に落ちても

もう 影は落とさないだろう

なぜならそれは月の影ではなく こころの影だから

誰か なみだの影をみたものがいるだろうか

そして無い月は 月の如く中空に掛かりながら

ありてあるものを照らし出すかにみえて じつは 

あがいてもあがいても遁れえぬ 心のなみだをそこにうつし続けるだろう

                   imuruta

bottom of page